おはようございます、たけちです。

令和5年5月4日木曜日みどりの日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?

たけちは、昨日のデイキャンの余韻に浸りつつ、パンクしたブロンプトンの修繕をします。

自転車屋に持って行くんですけどね💦

内装型のブロンプトンのパンクの修理はロードバイクと比較しても面倒なんですよ。

だから、ブロンプトンのタイヤ(特に後輪)を自分自身で直せる方はかなり尊敬してますおねがい

 

さて、今日は、100名城にして尾張名古屋は城でもつ、と言わしめた日本三大名城の一つ名古屋城について紹介します。

 

 

【名古屋城正門】

 

名古屋城は輪郭式平城、築城主はご存知どうする家康こと徳川家康

築城時期は1609〜1612年、ちょうど、豊臣氏包囲網を完成させ、滅ぼす段階と重なりますねニヤリ

 

【東南隅櫓 ここの鯱は江戸城の鯱とかびっくり

 

名古屋城は元々、戦国期1521年駿河太守今川氏親が築城した那古野城の跡地付近に築城したと言われています。

那古野城は織田信秀に奪われ、その嫡男をこの城に置きます。

その嫡男こそ、ご存知織田信長です。

しかし、1555年信長が本拠を清洲に移すとともに那古野城は廃城となりますチーン

 

【2018年に復元が完成した本丸御殿】

 

その後、時は流れ、1607年、清洲城主徳川義直に父ちゃんこと家康から突如命令が下ります。

「清洲から那古野(名古屋)へ移動せよ!」ゲロー

世にいう清須越しです。



清洲城から名古屋城へ移動させた理由は様々ですが、

①清洲城は城地が狭く、発展性が乏しかった。

②水害の可能性があり、対処困難

と言われています。

 

【現存三重櫓の一つ西北隅櫓、別名清洲櫓、推して知るべし真顔

 

1609年家康は豊臣恩顧の大名20名に対し手伝い普請を命じます。

その中には篠山城の普請に参加していた大名もいましたので、命じる家康も命じられた豊臣恩顧の大名たちも必死だったのでしょう。



1612年一応の完成を見ますが、1620年まで改修、増築を繰り返し、豪壮な城が出来上がります。尾張徳川家は61万石を領し、16代義宜まで続いて明治維新を迎えます。

 

【乃木倉庫、乃木希典とはあまり関係ないのでは💦】

 

明治維新後、本丸御殿、小天守、大天守の連結式天守や各種櫓、門等遺構は中村重遠大佐らの活躍により保存されていたのですが、1945年太平洋戦争末期、名古屋大空襲時天守、御殿等重要な遺構を焼失、この一事からでも戦争は愚かだなぁと思ってしまうたけちですショボーン

 

戦後、1959年鉄筋コンクリートによる復元天守が、2018年木造による本丸御殿が完成します。

そして・・・・

 

 

スタンプは正門改札所で、御城印と名城カードは正門付近売店で頂きました。

 

そして・・・・いつの日か木造に完全復元された名古屋城に登城することがたけちの密かな楽しみなのです。


だから、河村名古屋市長、できるだけ早めによろしくお願いしますねニヒヒ