おはようございます、たけちです。

9月シルバーウィーク、1日目の9月17日(土)、皆さん、いかがお過ごしになりますか?

たけちは今から旅に出ます。

行き先は、武田信玄と上杉謙信の激戦地川中島には行かないゲロー

長野松本、新潟上越です。

台風が気になるところですが、安全運転で行ってきますねウインク

 

さて、今日は100名城にして5大山城の一つ月山富田城を紹介します。

 『山陰大紀行(その4)月山富田城』おはようございます、たけちです。令和4年9月11日日曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?来週はいよいよ9月シルバーウィークに突入!せっかくの3連休…リンクameblo.jp


月山富田城は複郭式山城で平安末期に平景清が築城したという伝承がありますが、実際は鎌倉時代、承久の乱の功績により出雲・隠岐の守護となった佐々木義清ではないかと言われています。

いつもの諸説あるあるですね滝汗

 

 【結構探した尼子経久像】


時代は流れて室町時代、同地守護は佐々木改め京極氏、守護代は京極氏の血縁にある尼子氏でした。

1484年守護代尼子経久が所領押領、段銭徴収拒否等独自路線を進めたため、みんなに嫌われて追放(当然の結末ショボーン)となりましたが、

1486年悪い奴経久、不意をつき当城を奪取!

そのまま、月山富田城は尼子氏の城として発展していくのです。

 

【親子観音 尼子氏とは全く関係ない堀尾氏お家騒動時の首謀者堀尾勘解由の墓とされています】


月山富田城は伯耆国・美作国に立地条件から政治的・軍事的に重視されるとともに、中国山地のの生産と流通を掌握するうえでの拠点でしたが、それに加え、経久は1530年大内氏から石見銀山を奪取しており、その流通を手に入れます。

当時、日本の銀算出量は世界の3分の1ポーン

その多くを算出していたのが世界遺産である石見銀山であり、尼子氏の繁栄は間違いなくこの銀の支配にありました。

 

【山吹井戸 今でも水が出ている!?】

 

1541年尼子経久が没すると山口の大内氏及び安芸有力国人衆の連合軍に攻められますが、経久の跡を継いだ孫の晴久と晴久の叔父国久の奮戦及び出雲国人衆の裏切りにより大内軍は敗退しますショボーン

(第1次月山富田城の戦い)

 

【三の丸】

 

尼子晴久のもとで最盛期を迎えた尼子氏でしたが、その繁栄は長く続きませんショボーン

1554年晴久は国久ら尼子氏精鋭集団「新宮党」を粛清、1560年尼子晴久急死、これら一連の事象は尼子氏衰退の一途を辿る要因となります。

 

【二の丸と三の丸の堀切】

 

そして、1565年中国地方の最大の智将毛利元就が満を持し尼子氏攻略を開始

まずは、石見銀山を奪取したのち、月山富田城の周りを守る尼子十騎と呼ばれる支城を一つ一つ落としていき、月山富田城を包囲

1566年月山富田城開城、尼子氏は滅亡します・・・・・(第2次月山富田城の戦い)

 

【二の丸から本丸への道】

 

その滅亡に「ちょっと待ったぁぁぁ!」をかけた男が出てきますムキー

その名はご存じ、山中鹿之介幸盛

三日月に替わってお仕置き

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った戦国最大のM男

(これ褒め言葉なニヤニヤ

 

【山中幸盛塔】

 

1569年山中鹿之介は尼子再興軍を起こし月山富田城を奪取を試みるも失敗ゲロー

その後山中鹿之介は織田氏を頼るもその部下羽柴秀吉に見捨てられ、毛利軍に捕捉、備中松山城近くで殺されますチーン

因みに尼子の残党がとある村で惨殺され、

「祟りじゃ」ゲッソリで有名なのが横溝正史

「八つ墓村」ですよね。

(フィクションですよ滝汗

 

【勝日高守神社】

 

月山富田城は毛利氏の支配下に置かれますが、1600年関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は山口に減俸、新たに堀尾吉晴・忠氏親子が入封しますが、松江城を築城し、1611年忠氏の子忠晴が松江城に移動し、月山富田城は廃城となります・・・真顔

 

【山中鹿之介幸盛祈月像】

 

スタンプ及び御城印は安来市立歴史資料館でいただけます。

(御城印は例にもれずもらい忘れましたえーん

尼子氏の繁栄を支えた難攻不落の山城月山富田城

尼子経久・晴久ら尼子氏、毛利元就、山中鹿之介等等が活躍した山城も今は長閑なもの

芭蕉の句夏草や兵どもが夢のあとがぴったりなお城ですニコニコ