おはようございます、たけちです。

3月に入り、西宮近郊は日中かなり暖かくなってきてますねニコニコ

しかし、まだ、朝、夕の寒暖の差は注意を要しますね。春物はもうすぐなんですが、いつ着るのか判断に迷うところです。もうすぐなんですが口笛

 

さて、今日は平戸城の紹介をしたいと思います。

 

平戸城石垣と亀岡神社の狛犬

 

平戸城は悌郭式平山城で、1599年松浦鎮信により築城されます。

 

亀岡神社から見る乾櫓

 

1608年最愛の嗣子急死で悲しみのあまり鎮信は城に火を放ってポーン廃城となります、って、オイ!

まぁ、諸説あるんですが、豊臣氏との仲について幕府の猜疑と不信を逃れるために、焼却したとも言われています。

結果、一度廃城となる結果は一緒なんですよね。

 

現存する狸櫓(新しくみえるなぁ)

 

その後、幕府の権威を恐れ、なかなか再建の許可を言い出せなかったものの、ほぼ100年後!の1704年にようやく幕府の許可(この時期に許可が出るのは異例中の異例です。一説によると東シナ海の警備の重要性から必要になったためとも言われています。)を得て新たに再建することにニヤリ

 

写真暗い💦

 

その際、山鹿流軍学に基づき縄張りを行いました。

山鹿流軍学の祖といえば、山鹿素行ですね。

山鹿流軍学に基づき縄張りを施したと言われる城が他にもあると言われています。

その城はどこでしょうか?シンキングターイムニヤニヤ

 

虎口から模擬天守へ

 

答えは赤穂城です。

山鹿素行が当時幕府の官学であった朱子学を批判したため、一時的に赤穂城の当主であった浅野氏の預かりになった時に赤穂城の縄張りに参画したと言われています。

なお、素行は松浦氏とも縁があり、その縁で平戸城の縄張りが山鹿流軍学によるものになったんです。

これが今の縄張りとなり、幕末まで至ります。

 

模擬天守

 

1871年廃藩置県後2度目の廃城となり建物は解体されます。

模擬天守は1962年に建てられ、亀岡神社とともに市民の憩いの場となっています。

 

 

スタンプと御城印は模擬天守内で頂けます。

 

1回廃城となったにも関わらず山鹿流軍学で復活した平戸城


赤穂城と比べてみると面白いかもしれませんねウインク