聞くところによると、どうやら人は生まれてから3歳ぐらいまでの記憶ははっきりとは残っていないそうです。
それが真実かどうかは定かではありませんが、いわれてみれば僕も3歳までにどこどこへ連れて行ってもらったという話を聞かされてもまったく覚えてはいません。
僕が鮮明に覚えているもっとも若いころの記憶といえば、アヒルのおまるに座ってうんち(ゴメンナサイね)をしているときなので、おそらく3歳以降でしょうか。
お腹が痛いのになかなか出なくて大泣きをしている横でお母さんが「がんばれ、がんばれ」と応援してくれた映像だけが、写真も残ってないのになぜかずっと覚えているのです。
おそらく苦悶の形相で窮地に立つ息子を見放さずにずっと寄り添ってくれた母の慈愛のような温もりを子どもながらに感じとっていからでしょう。
そういう親に僕もなれたのであればズーの幼少の記憶にも鮮明に残るであろう、これはある種のヒントですね。
さて。子どもは3歳までの記憶が残らないということで、誕生日にプレゼントを与えてもどこかへ連れて行っても意味がないという理由から、3歳まではバースデーイベントはしないというお母さんがいます。
それはひとつの考え方であり、ひとつの育て方なのでしょう。
僕もおなじことを想像してみたのですが、ふと思うことがありました。
子どもって記憶が残る残らないどうこうの話じゃなくて、今このときを楽しんでいるんだよなぁ、と。
今が楽しかったらそれでいいという考えなんですよね。
大人がおなじ考えをすれば批判されるので、これは子どもだけに許された特権です。
すると「どうせ記憶に残らないのだから3歳までお祝いをしてあげなくても大丈夫」という考え方は、親の勝手気ままなただの口実に思えてくるわけです。
だって、かわいそうですよね。
与えれば喜んでくれるのに、その喜びをひとつ減らすなんて。
べつにいいじゃないですか。
子どもの記憶には残らなくても親の記憶にさえ残っていれば。
大きくなったら「3歳のときにこんなところに行ったんだよー」って話をしてあげたら。
「ふーん」って素っ気なく返されようとさ。
僕はハーフバースデーのことはあまりよく分かりませんが、誕生日だけはその子にとって本当に大切な唯一無二の日だと思うんです。
無事に現世に生まれ、家族な元に来てくれた奇跡の日。
大切な日に大切な子に大切な時間の共有をしてあげるのもまた親の役目ではないでしょうか。
毎年お祝いをしてあげれるのは親しかいないんだから。
ハッピーバースデートゥズー。
じゃあ、ニフレルにコツメカワウソでも見に行こっか。