気持ち悪くなっちゃった
何か気持ち悪いことに…
自分の行動が甘えなのかどうかを考えるために、自己を優先してないか?常々考える。その結果、利己的に感じたり考えることが多いので、頻繁に自己嫌悪する。
例えば困っておられる方に躊躇なくスッと手を差し出せたとき、良かったと思えて嬉しくなる。一瞬でも悩んだりすると結果差し出せたとしても“何故ためらった?”てな具合に自分を責めてしまう。だからいつも自分自身と戦っている感じ、負け続きですが。
メールで文章を書いていると、重ねる齢に比例して文章が上達していない自分に気付いた。緊張する場面、文章力を問われる場面が少ないからかも知れない。
絵文字は友人相手に使う。デコメールは流石に抵抗があり使わない。時代には逆らっているのかな?
“手紙”ってきっと読んでもらう為のものやんね?自分の言いたいことを読んで欲しいからこそ、礼儀や読むものの立場で書くのではないか。
そんな思いが“手紙”に込められるから貰う側は送り手に感謝し、労力を労うのだろう。
“拝啓・敬具”“前略・草々”は相手に対する気遣いのコトバですもんね。もはや死語ですか?
さて、絵文字を使ったメールですが、文章の終わり方が下手に成っている気がした。句読点の打ち方で読み易い文章が作れないのだ。誤魔化すように、感情を誘うように絵文字を入れてしまってる。
子どもの頃、親しい友との間でだけ通用するコトバが出来ると楽しかった。団結の象徴のようで、その意味を知らない人がいることが特別な関係を意識できて嬉しかった。その延長に若者コトバが在ると思う。大人の知らないコトバを知っていることで若者属性を感じるのではないか。ネット語もそうか?“…ワロタww”って言われても知らんがな、と思うけどニヤリとする人もいるんだろう。仲間以外が解らないことは願ったり叶ったりではないか?
読む相手の立場でなく、書き手の感情を受け止めてもらうような書き方は、本来の考えからは逆行している気がするがどうだろう。内々で理解できるものだけで集まり盛り上がるなんてのは健全なんだろうか?自分は幼児性の他ならないと考えるのだけれど…
もしその気持ちが間違いじゃないなら、幼児性の高年齢化・拡大とは言えないか?
読み手を思いやって文章をしたためるのが大人としての礼儀だから…。
自分は他人の眼を凄く気にする。この頃は異常な気すらする。でも何となく、自我意識を滅して社会を優先する、社会に貢献するのが“大人”だと思っている。
自分の損得勘定によってではなく、誰かのために役立つ事を躊躇なく優先できる。そんな大人に僕はいつ成れるんだろうか…
その先に本当の“豊かさ”があるなら…なんて素敵な事なんだろう。それをバカみたいに目指したら駄目でしょうか?
わからないや…
自分はどうなるんだろう。悲しく思う時がよくある。お腹の辺りがキュッと熱く苦しくなる。そんな時は消えてしまいたくなる…でも怖い。
“怖い”気持ちがもし、自分の中で大した感情じゃ無かったならば恐れず頑張っただろうか?それとも恐れず未来を絶っただろうか?分からないや。
世の中にどれだけの“ホント”が在るか疑問を抱くようになっています。嘘で固められているような錯覚すらする。
部屋に籠る自分の存在証明は友人たちからのメールと返信だけかもしれない。こんな状態でも相談に乗っている自分を俯瞰して質の悪いコメディだと感じている。
“アクション”
これが最も素晴らしい成長手段だと思う。どんなに素晴らしい思考をしても行動しなければなんの結果も招きはしない。相手を強く思う考えを持っていたとしても黙っていたら何も伝わらない。声に出す、届ける行為をもってようやく影響を与える。何らかの結果が生じたならば、対象がワタシの為に何らかのアクションを起こしたからなのだ。なのに、行動を留めた結果だと諦めた側は平然と言う。違うのに。
人の悩みを聴いていると、STOPの判断を下す人が凄く多い。止める、諦める、言わない、しない…相手を思いやる振りをして、自身の不動を正当化する。
だから成功しない。成功をつかめたとしたら、それは対象ががんばったから。それに気付くのはいつの日か…
相談を持ちかけられた時はなんとか行動の後押しになるコトバを探し返答する。解答が簡単だとしてもその人の動力に成るためのコトバを一生懸命チョイスしているつもりだ。多分。
時には妥協だってする。100歩進むのが良いと思っても10歩進むのがやっとならば10歩分の後押しのコトバを探す。これって間違いなのかな…
こんなこと部屋に籠り悩むから動かない自分が大嫌いになり、そこまで考えてくれる知人がいると実感できない事に寂しさを覚える。
残念!それが自分の器なのだ。お粗末様。
ある友人の恋の相談?に乗り、間接的に相手の子を傷付けてしまった。相手の子も知人…だから傍観を決め込みアドバイスはせず聞き役に徹した。結果を聞き、その子の気持ちを考えると胸が締め付けられる思いと罪悪感に苛まれた。
今、友人は別の子とよろしくやっている。友人もその子も相手を待つばかりで何年も進展しない中、積極的な第三者が奪い去ったようだ。正直、人様の色恋相談ほど興味が無く不毛な話はないのでどうでもいいのだが…人一人を傷付けた上に立つ幸せという自覚の全くない、ヘラヘラする友人に苛立ちを覚えてしまう。大人同士の恋ですしねぇ。反面教師に致します。
さぁ自分自身のアクションへと集中、努力しようよ!俺ならできるはず!
待ってろ、世間のクソども!
…ごめんなさい、偉そうに言い過ぎでした。
今年
2013年に成りました。
“暦”なんて無ければ、ただ淡々と過ぎ行く日常なのに、年末年始と年中行事にされるだけで気分や言動が左右されてしまう。人間は道具を産み出すことで便利を得てきたけれど、その道具に囚われてしまうならば±0ということか?
体力的軽減は精神的不安を増大させると仮説を立てれば、現代社会の闇は説明出来るのかもね。
何かを手に入れたときには何かを失う、便利なんてのは大手を振って歓迎されるべきことではないのかも知れないなぁ。何かを失う…昨今の若者の意欲低下もその一つ?
ネット社会の発達で不特定多数の意見を容易に目にできる。情報源としてのTVはもう意味を成さない。そう思ってる。ただネット情報は真偽入り混じり質量も多様、自分で情報を精査する必要がある。底辺が広い分、劣悪で一方的な内容、差別が多い。
“便所の落書き”なんて揶揄されるけど、そういや街で落書きを見なくなった…
街は綺麗に成ったけど日本の恥を世界に曝しているようにも思う。
ここ数年、ちょっとしたことでもビジネスに転化させ利益に走る企業が多くなったように思える。CMを観ていても気持ち悪い。TV放送局がもはやCM放送局に成り下がってる…もう商品のスペックだけ教えてくれ、良し悪しは自分で判断するから…そんな気分、なのにご丁寧にも第三者を装う著名人が推薦してくださるのだから気分が悪い。
企業成長の中、ビジネスチャンスを模索するのは正しい事やけど、質と利益が一致しているようには思えない。不要として廃棄されてきた素材を効果が在るからと言って高値で販売する方法は商売として全うか?加工料ってホント?
不安をあおり、利用を促すことでビジネスチャンスにしている企業や保険産業…大丈夫か?
嘘だらけ、騙し合いの世の中でそれに染まり行く大人たち、その下で良い子どもたちが育つ筈がないやん。大人たちを見てるんやもん。
“子どもたちが危険”と叫ぶけど、そんな社会を欲したのは子どもじゃなく大人たちやもんねぇ。
ね、便利な事って良いことじゃないでしょ?何か失う事も表裏一体で在るんだよ。だから称賛したとしても崇めるものじゃ無いんやない?
依存してから失ったとしたら…恐ろしいでぇ。
芸術家で建築家のフンデルトバッサーは、人も家も社会もそして地球も一つの生命体を形成するための区分?にしか過ぎないと“皮膚”というコトバで説いた。
人の知能はコンピュータの発達で後退するかも知れない。でも、手元にある“携帯電話”が役割を補完していると考えればどうだろう?トータル進化かも、サイボーグと何が違うの?人を形成するための殻“皮膚”はどこまでを一人の人間だと認識するのだろう…実は技術革新こそ人と人との垣根を根絶するのだなんて言うとセチなSF小説やね。
今年は自分の考えを体現するように頑張らなきゃ、こんな世の中だと解ってるなら何かしなければイジケテルダケヤモンナ。


