キンと冷え込む中で満月が西の空に輝き、うっすらと月明かりが残る中

 

朝六時に正月3日に立てた龍江第一常会のおんべが点火されました。

 

なかなか炎が駆け上がらず、すこしやきもきしましたが…

 

無事に幣束まで炎が

 

集まられた方々より、周辺の他のおんべの偵察状況(笑)が語られます。場所がどこだとかがメインですが、最後は「第一常会のがやっぱり一番だよ」


これが大切なのだろうなと。

 

結とか寄合と呼ばれた、集落全体で取り組んだ農の営みがあった時代と比べて、現代は各戸が稼ぎのため、何かに地域で一緒に取り組み喜びや悲しみを共有することはありません。
ただ、自然との付き合いは昔と同じ。常に手間がかかりますし、機械化や自動化が進んでも「そこに住む者が自ら携わる」と言う事は変らない。
その際やはりココロの拠り所となったり、情報の共有、時折の機器貸し借りなどで共有できるのが、近隣の住む似た境遇にある人達だと思うのです。
「正月はゆっくりしまいか」との話もあって、三日の準備を見直そうとも考えられましたが、皆で苦労して作ったものをせめて松の内は日々眺めたいとの思いも共有でき、この朝を迎えました。
同時にお神酒を少し頂きながら火を見つめます。

 

 

餅焼に備えて良く燃えるよう焼け残った竹で押し込んだり掻きだしたり。
 

そして「こっちの燠の様子がいいぞ」の一言で次々とお餅を付けた竹が中央に向かって伸びる。

 

火を囲みながら昔話から自分の趣味などの話まで飛び出す

 

中々集まる機会が少なくなった現在では、こうして火を囲んでの話は大切。

 

 

自分は半ば自動化できんものかと、燃え残った竹を切って半分に割り、十字に組んで支点とし、持ち手のほうは高さを固定するべく半割りの竹の節を活かしてストッパーとする。

 

 

でもズルするもんで焦がす

 

ノンビリ一枚一枚焼きたいところだけれど、

いろいろヤリタイ事もあって、網でまとめて焼く

 

 

第一常会では網を用いる方は少ない。認識としては邪道なのかも。他ではソーセージとか、マシュマロとか肉まで焼いているとかいないとか…。一応神事だもんでそれは如何なものかと。

 

でも8時過ぎには餅焼の方は帰ったものの、今度は母を中心に年配の女性がお茶やおイモを焼きに集い、少しづつ弱まる熾火を囲んで話をしていた。

 

毎年の風習で持ちを焼くのに使った竹は、防火のお守りになるのでこうして軒下に。溜まった竹が過去のおんべを物語る。

 

焼いたお餅はその場でも食べたけれど

自分の分にと持ち帰ったうちの2個は丁寧に昆布とカツオと煮干しからとった出汁に味噌を溶いて

 

イチョウ切りのニンジンと青い菜を加えたお雑煮にていただきました。

 

昼過ぎの13時には正副常会長と集まれる衆が来て、灰を掻く。
 

灰は我が家で肥料として用いるため、一輪車で運んで集めて置く。
おんべは単なる正月行事というより、この場所に住む人たちの繋がりのため、誇りや一緒に取り組むことの大切さを再認識させる場だなと。