㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
その眼にはまだ何も映らぬはず
ジェシンの唇が動いた。こぼれ出た言葉は既に韻律が整っているかのように美しく紡がれていた。
ユンシクはソンジュンの背後でそっと懐を探った。いつも入れている懐紙と携帯用の筆。漢詩としての整え方はわからないから、その言葉のままハングルで書き留めていく。
影も形もすべてが茫洋としているはず
ソンジュンとヨンハも聞いている。ただ赤ん坊を見詰めて。黒々とした瞳をゆったりと動かしてから、赤ん坊はひとところで視線をとどめた。眇めたその瞳は、ジェシンとヨンハの体の隙間から入ってくる光を捕えていた。
だがお前には見えるのだ 光が
天が与えし陽の光 夜に供された月の光
導となる星の光 体を温める火の光
赤ん坊がゆっくりと瞬きをした。そして唇が孤を描くのが分かった。
だからお前は追いかけるのだ 光を
この世で初めて見つけたものの記憶を頼りに
そしてお前は追いかけるのだ 光を
その瞳に初めて映したものの記憶を頼りに
生きよ 生きよ
瞳に光を湛えて
ジェシンの声が消えると同時に、赤ん坊は再び瞬きをし、そしてゆっくりとその瞼を閉じていった。まつ毛が今まで追いかけてきた光によって影を作り、唇が描いた孤もすでに元通り少しとがらした形になってしまっている。
「・・・笑ったな・・・。」
「ああ・・・笑ったな。」
「笑いましたね。」
「笑ったね。」
まるでジェシンの詠嘆などなかったかのように四人で赤ん坊の笑顔を確認し合い、そしてジェシンとヨンハの二人は辞した。ジェシンからは祝い金。ヨンハからは産婦へのご褒美と称して滋養のある干し肉と干しアワビが手元に残されていた。
赤ん坊を受け取りに来た乳母に渡し、ソンジュンと二人きりになったユンシクは、書き留めたジェシンの詩をソンジュンの前に置いた。どことなくぼんやりとしていたソンジュンはその紙を取り、熱心に何度も読み返した上、書いてくれたんだね、とユンシクに感謝のまなざしを向けた。
「何よりもの祝いだった・・・のに、俺はただ、コロ先輩の言葉がコロ先輩の声で紡がれる中、それを聞いているあの子を見詰める事しかできなかったよ・・・。」
「惜しむらくはね、ソンジュン。僕にはこれを漢詩の形で書き留める事が出来なかってことだよ。コロ先輩なら、美しく韻を踏んだ言葉選びをしてくれるんだろうけれど、僕は書き留めることで必死だったから・・・。」
ハングルで綴られた詩だって美しい。けれどハングルは音を当てている字だ。漢字は一文字に意味があり、文字の形すら装飾になる。けれど。
「昔ね・・・成均館で、俺やユニが、コロ先輩が初めて漢詩の上手だと知ったときにね、先輩はユニの詩を読みたいという望みにその場で応えたことがあったんだよ。」
「・・・僕、聞いたよ。姉上は成均館でのこと、逐一教えてくれていたから・・・入れ替わったときのために。」
「そう。それでね、そのとき目の前で書いた漢詩はすぐに成均館文集の編集をしていた人たちに持っていかれてしまったんだけど、先輩はそれを残念がるユニに、ハングルで詩を書き直してくれたんだ。」
そのとき、ジェシンは言ったのだ。異国の言葉で書いたものは本物じゃない。自分の使う言葉で綴ったものが本当の詩であり本当の気持ちなのだ、と。
「だからね。君が書き留めてくれたその詩が、コロ先輩の心や願いを一番表してくれているんだと思う。漢字に書き起こす必要なんかないさ。」
ぱちりと開いたあの瞳を思い浮かべる。濁りのない瞳は光を湛え、きらめいて、そして閉じていった。捕まえた天からの戴きものを閉じ込めるかのように。
「それでももう一度清書するよ。何か綺麗な紙、無いかな。こんな紙じゃ、サヨンの詩がかわいそうだよ。」
というユンシクのために紙を机から取り出しながら、ソンジュンは赤ん坊の瞳を想った。
帰り道、肩を並べて歩きながらジェシンとヨンハは無言だった。清らかなものに接した、そんな感動が二人の胸を満たしていた。あの美しいものを穢してはならない、そう思えた。
「天はこうやって地にある者たちに教え直すんだろう、生まれたばかりの時の清らかさを思い出せ、と。天は見ているから。穢れた人の世を。」
まるで詩の続きのようにつぶやくジェシンの言葉を、ヨンハも夢を見ているような気持で聞いていた。