㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
ユンシクは、周囲の期待と裏腹に、勝った賭けを回収しようとしなかった。西斎の者たちが口をつぐんでいるのはおかしなことではないが、東斎の者がこそこそと促すようなことを言っても、ユンシクはまた今度ね、というばかりだった。ハ・インスは堂々と成均館での日々を今まで通り過ごしていたし、カン・ムが傍に居ることも変わりはなかったが、追従するように彼らの後ろに従い群がっていた下斎生の幾人かの姿は見えなくなっていた。あの手射礼で切られる理由があったのだろう。
「今日はまっすぐに実家に戻ります。明日、姉上にお目にかかりたいとお伝えください。」
荷物を背負ったユンシクが言ったのは、明日が帰宅日という午後のことだった。確かにムン家に寄っていては、歩いて二刻かかる南山谷村に着くのが遅くなる。荷の中には、実家で取り換えてもらう肌着などの洗濯もののほかに、ヨンハがユンシクに与える夜食用の菓子を取り置いていた物や、多めに与えられる体に良い薬剤も入っている。そして懐には筆写の仕事で稼いだ金。成均館での生活には金は要らないが、付き合いなどで多少は取り置いているようだが、その他はすべて母の生活費として渡している。それが今のキム家の実情だった。
手を挙げて答え、ジェシンも成均館の門を出た。途中で別れ、まっすぐに屋敷に向かう。ユニの顔が見たい。父親がユニに手射礼のことを何か話してやっているとは思わない。忙しい人だし、ユニはそれをよく知っている。ユニには優しいが、ユニだって忙しい父にわがままを言わない優しい娘だ。時間がないならないままでいるだろう。網巾の礼を言わねばならない。あれで力が出たと言ってやりたい。お前と一緒に戦ったぞ、と。そのおかげか、負傷してもお前の弟はやり切ったぞ、と。
ユンシクの手の傷がかなり治っていることも心を軽くしていた。案外しつこかったのは、傷にいくつか細かな砂のようなものがめり込んでいたためでもあった。結局手射礼の次の日に、もう一度チョン博士につかまり、その石を取り除かれていた。大層痛かったようで、涙目でソンジュンに付き添われて戻ってきたユンシクの肩を、とりあえず慰めに叩いておいた。しかしそれが良かったのか膿むこともなく、数日怯えながら薬房で包帯を替えられる生活を送って、今は親指だけに布が巻かれている状態になった。あの手を見て、ユニや実家の母親が心配することになるのは避けたかった。あの程度なら、弦を引きすぎて皮がめくれた、ぐらいでごまかせる。ユンシクは武に関わることをしたことがないから、掌が柔らかいのだ。マメが出来るのも擦れて皮が痛むのも仕方がない、とごまかせる。
屋敷に戻ると、ユニが相変わらず飛び出してきた。お兄様!と抱き着く体を抱えると、見上げて満面の笑みを向けて来る。胸が鳴るのが分かる。今まで自覚がなかったのが不思議なぐらい、既視感のある感覚。こればかりは、母から聞かされた、ユニをいずれジェシンの妻に、という意志が自分にも植え付けられたからだろう。けれどもう少しだけ、そう、もう少しだけは兄妹としていなければならない。何も整っていないのだから。自分自身も、キム家も、そしてムン家としても。まずジェシンがしっかりしないといけないのだろう。そう分かっているけれどどうしたらいいかはまだわからない。
しかし道というのは意識すれば見えて来るものだと、ジェシンはその晩呼ばれた父に聞かされた。ユニは勿論母と共に内棟だ。手射礼の顛末をせがまれるままに話し、明日、ユンシクが立ち寄ることを教えると、満足して母のところに戻って行ったのだ。その後屋敷に帰宅した父に呼ばれたのだ。
手射礼の結果についてあっさりとほめた父は、ジェシンに言った。
「・・・ヨンシンを陥れた者の罪の証拠を手に入れた。あの冤罪事件にも絡むだろう人物を押さえた。しばらくお前は成均館で大人しくていろ。」
「それは・・・誰ですか?」
「言えばお前がことを起こすかもしれないから言わぬのだ。分かれ。」
「・・・ハ大監ではないのですか。」
ソンジュンが言っていた、左議政のハ大監に対する態度の変化が、今腑に落ちたのだ。父は恐ろしいほどの顔でジェシンを睨んでいるけれど。