㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
ユニは項垂れた。正直、頭は混乱したままなのだと素直にこぼした。
本当に、昨日養父に実弟が挨拶に来ると言われ、実母と実弟がユニと共に暮らすことを望んだらどうするか、それはユニに決める権利がある、と穏やかに・・・そう驚くほど穏やかに伝えられた。儂たちムン家の者のことは気にしないでいい。儂たちはお前の実家の不幸でお前と共に暮らすという幸福を貰ったのだ。こんなに長い間。だからお前は自分の胸の内のままに選べばよい。母御も弟も、どれだけお前に会いたかったか、共に暮らしたかったか。お二人の健康を害したのもこちらの不手際であったのに、その回復を待つ間、我が家はお前を存分にかわいがる時間を頂いたのだ。儂たちから何かを望むのは強欲なことだ。お前の不在に寂しい思いをさせた母御、そして養女として辛い思いをしただろうお前の望む通りで良い。
何も言えなかった。言いたかったのに。辛い思いなんか。何があったというのですか。私が、この屋敷の中で、まるでかわいそうな娘だったように、お父様お母様たちだけが幸せだったようにおっしゃるけれど、私がどんなに幸福な娘でいられたか、それはなかったことになるのですか。
ただ頷いて養父の部屋を出た。何も言えない。頭の中はぐちゃぐちゃだった。ただ歩いて、気が付いたら部屋の中にいた。兄、ジェシンの部屋。兄がいつも使っている小机の前に座り、突っ伏している自分に気付いた。
兄の匂いがした。墨と筆と紙。それだけが片隅にいつも置いてあるその小机から。それはジェシンの匂いそのものだった。どんなに弓の鍛錬をして汗みずくでも、成均館から戻ってきて、その外歩きの後でも、彼からは墨の香りがしていた。安心した。お兄様、と小さく呼んでみた。お兄様お兄様。何度もつぶやいた。ユニはここにいてはダメなの。どうしてお父様は、ここに居なさいって言ってくれないの?お兄様お兄様。お兄様の傍に居たいっていうのは、私の選ぶ道の中にはないですか?
ユニだって、その願いは口に出してはいけないことだと知っていた。養女だと、いや、籍は動かしていないのだから預かりものの娘だと皆は知っているが、それでもジェシンとは兄妹として育ってきた。ムン家の家族は皆ユニを慈しんでくれた。厳格だが優しい目を向けてくれていた頼もしい父、ただただ優しい母、亡き兄ヨンシンが幼い頃よく抱き上げてくれたその高さと温かな膝の上のぬくもりだって忘れられない思い出。屋敷の中でジェシンを探して回り、勉学の時間ですら隣に座り込んで本を覗き込んだ。庭で体を動かすジェシンを見ると、一緒に駆け回りたくって、何度か母に注意されたものだ。それでも一緒のことをしたかった。幼い頃は同じことをしてもいいと思っていたのだろうが、流石に母に娘としての振る舞いを教えられる間に、男であるジェシンと同じようにはできない事があるのだと知っていった。いい子でいないと、とは思っていたが、少しぐらい羽目を外しても、皆笑ってくれた。兄ジェシンは父にお尻を叩かれる罰を受けていたが、ユニは父に大きな声を上げられたことすらなかった。だけど分かる。この願いを言えば、父は怒る。母は嘆く。兄は、ジェシンは・・・困るだろう。ユニは妹なのだから。
お兄様お兄様。ユニはどうしたらいいですか。
そう思いながら過ごした一晩。母の傍に戻ったとき、母の頬には涙の痕があったが、何も言われなかったことを見ると、ユニがジェシンの部屋で過ごしたのはわずかの間だったようだ。眠ったか眠らないか判らないような一晩の後、母に指図を受け、客を迎える用意をする下女たちの様子を見守る。平気そうな顔をして。けれどジェシンの顔を見たらダメだった。お兄様お兄様。
兄の部屋は、小机に突っ伏さなくても,墨と紙の香りが漂った。兄本人がいるから。安心した。だから本心を言ってもいいかもしれない。
お兄様。私はずっとお兄様のお帰りを待っていたいの。