㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
五 生涯の務め
ユニにとって、雲書院の暮らしは幸せそのものだった。
16歳でここに来た時、ユニは母の言う事について半信半疑だった。そんなうまい話はない。賄と自分の弟の世話で、年10両もの金を払う酔狂な人などいない。だが、書院の主、チェ・ヨンシルのことは聴いた事があった。父が生前言っていたのだ、県をまたぐが、兄と仰ぐ兄弟子がやっている素晴らしい書院があると。昔父が師と仰いだ人が亡くなった今、チェ師が自分の師のようなものだと。清貧の暮らしの中で若者を育てることに人生を捧げている人なのだと。そんな人がいるわけない、と欲のなかった父を除けば欲の塊のような大人しか知らないユニにとっては夢物語だった。
こちらの足元を見て薬代を高く請求する薬種屋、確かに診察の代価をはらえないこちらが悪いのではあるが、高熱にあえぐ少年ユンシクを診ることを渋る医師、その代価の金を出すために売る家財を買いたたく古物商、その姿を知っていながらあざ笑う事しかしない親戚。生活能力のない母が全てむしり取られ、売るものは娘しかない、という状況に追い込まれるのは必然だったし、一瞬諦めもした。だが母は最期に知恵を絞りだした。それがチェ・ヨンシルを頼ることだった。しかしユニは知っている。母が頼んだのはユンシクのことだけだ。
自分だって私のことはいい、とは言っただろう。ユンシクが助かるなら、キム家はまた再興できる、それは家を存続させるための決断だ。だが、気持ちはそうは上手く納得していなかったらしい。母のことも心配ではあるのに、書院にきて肩の力が抜けた自分がいることを知ってしまったのだ。
ないがしろにされていたとは思わない。父も母も娘としてのユニを愛し、きちんと育ててくれた。年の離れた弟ユンシクを守りたいと思うのだって母と同じ気持ちだ。だが、家のために、これからのために、と先を託されるユンシクの立場を羨まなかったわけではない。
ユニの家も、この書院と同じく、素読の声が流れる家だった。父は案外名が通っていたらしく、毎日違う顔ぶれの弟子が訪れて学んでいた。その素読の声を聴き、ユニは育った。文字を覚えてからは自ら素読の言葉を丸暗記し、それを漢字の連なる本を眺めることで漢語すら覚えていったのだ。両親は娘ゆえ習字は習わしのように学ばせたが、ある日、我が娘が病で寝込む幼い弟の枕元で『論語』を読み上げてやっているのを見て驚いたのだ。両親ともに、娘が学問などするものではない、と諭したが、弟の学ぶ機会のための補助的役割としての音読は黙認した。ユニは四書五経を弟のためという名目で読み覚え、その意味すら頭に叩き込んだ娘になったのだ。
それが自らに何の力も与えないと知っているからこそ弟を羨んだ。その気持ちも欲だと知っていても無くすことはできなかった。四書五経意外にも手を出し、父の蔵書をこっそりと読みふける日々は、父の死によって断ち切られたが。
ここにきて、仕事の一つにユンシクの体調の管理がある。体が成長してきたのと、規則正しい生活のおかげか、ユンシクは健康を取り戻していった。簡素だが村の者や弟子たちの家から届けられる食材を惜しみなく使う食事のおかげでもあるのだろう。口から摂るものが体を作るのだ、とチェ師はユニに教えた。ユニは心を込めて食事を作る。ユンシクの体を作る、他の儒生たちの健康を守る、そしてチェ師のこれからの長寿を祈って。
ユニは感謝しているのだ。ユンシクの学問の実力を確かめた際、その年齢と病勝ちだった経歴からは想像していなかった進み具合であったのに驚き、そこにユニの協力があったとユンシクが正直に言ったのだ。呼ばれたユニは、弟のためだけではなく、自分が娘だてらに学問が楽しく思われたとこれも正直に答えた。するとチェ師はユニの両親のように困った様子は見せなかった。逆に、それならばお前も書物を読み続ければよい、分からなければ聞きに来なさい、とも言ってくれたことにユニは驚いた。
ユニが手に入れたのは、安寧な暮らしだけでなく、学問をすることを認めてもらえる場所でもあった。
これはユニにとってはここ以上の場所などないと思わせる出来事だ。親戚は、そろそろ嫁入りの年なのだから、と親切ごかしに言っていたが、嫁になど行かなくていい。貧しい両班の娘の嫁ぎ先は、多かれ少なかれ身売りみたいなものだ。だから、この場所を与えてくれた先生に私は尽くすのだ。働いて、働いて。先生のお世話を最後までさせてください、と頼もう。
生涯この書院に、先生の傍においてください。