㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
それは店を辞する時の短いやり取りだった。招待されたような来店ではあるが、ジェシンは茶代は払う気で来ていた。だが、お礼にも本当はならないぐらいだ、と店主である叔父まで出てきて言われては、店先でごちゃごちゃと揉めるのもおかしな話で、ヨンハが自分は関係ないから払わせてくれと叔父夫婦に行っているのを待っていると、ユニがすっと近寄ってきて懐に固い包を押し込んだのだ。
「この間・・・せっかくのお買い物をダメにしてしまいましたでしょう?いつ来られてもいいようにと思って用意していましたの。」
「・・・あれはたまたま手元にあったからで、気にするほどのものでは・・・。」
「いいえ。果実を殿方がお求めになるなんて、よほどご自分がお好きか、どなたかへ差し上げるかだわ。大事なものだったのに惜しげもなく投げてくださって・・・本当にあの時、私はうれしかったのです。」
ありがとう、そう囁いてユニは離れた。ジェシンはそれ以上何も言えずに、懐を押さえて帰り道を歩いていたのだ。ヨンハは人としゃべりながらしっかりと見ていたらしい。ジェシンはそっぽを向いた。
「なあなあ!なんなんだよう!」
「何でもいいだろ。」
何でもいいなら教えろよ~、と騒ぐヨンハに負けて、リンゴだよ!とジェシンは叫び返してやった。
「リンゴ?」
「おう。ユニ殿に絡んでいた男を追っ払うのに、とりあえず手元にリンゴしかなかったから投げつけてやったら、一人の顔面に当たって・・・。そういや俺が投げたのは一つだな、もう一個は?俺は二つ贖ったんだが・・・。」
覚えてねえ、と首をひねるジェシンに、ヨンハは呆れたように笑った。
「そこに落としたんだろうな。お前が落としたままだったから、それを見つけたユニお姉様は、お前の投げたものがリンゴだったんだとわかったわけだ・・・。」
お母上様に土産だったのか、と聴くヨンハには母はもう亡い。お互い時期は違っても家族が誰か欠けてしまったもの同士、どこか下手な慰めのいらない間柄になっていて、ジェシンも母親に関する話題をヨンハに対して避ける事はなかった。だからヨンハはジェシンの母の健康が今一つ優れないことを知っていた。
「そのつもりで贖ったんだが、屋敷に帰った時には自分の喧嘩後の荒れた姿を母上の目から隠すのに大わらわだったからな、忘れてたぜ。」
手の甲の怪我なぞそれこそどこかでひっかいたぐらいの浅いものだが、何しろ服の袖をちぎり取ってしまっていたし、着崩れもいつもよりひどかった。母を心配させるならこの上ないほど効果的な見た目だったに違いない。
懐から出してぎゅうと縛られている布包の結び目を解くと、つやつやとした黒ずんですら見える深い紅の果実が二つ。食べごろの甘い、けれどどこか爽やかな酸味の感じられる香りを放ってそこに包まれていた。
「俺に渡そうと用意してくださっていたようだ。気にすることなどないと何度も言っているのに・・・。」
誰だって助けるだろ、とジェシンは言うが、ヨンハは首を振る。助けたくてもヨンハには人を呼ぶのがせいぜいだ。非力な者にとって、人の争いに割って入るなどできる芸当ではない。人を呼ぶ声すら上げられない臆病な者だってこの世にはたくさんいるのだ。だからこそ、赤の他人のために大切な果実を投げ捨て、小さいと言えどもケガをしてまで身を挺してくれたことに、助けられた方が恩を着るのは当然だし、それを遠慮することはない、とヨンハはリンゴを眺めながら言った。
「それにさ、ユニお姉様はさ、これからも見守って差し上げないとさ、危なっかしいだろ?あんな人目につくところで働いておられるんだ、客の中に近づけてはいけないような輩がこれから出ないとも限らないだろ?」
「お前みたいな、か?」
「失敬な!俺は女人の嫌がることはぜ~ったいにしない男だぞ!」
けれどヨンハの言いたいことは分かる。今回のことで遣いにユニを一人で出すことは減るかもしれないが、店で働いている限り、ユニは多くの人に見られるということだ。接する人間も増えるということだ。
「だから、時々、様子を見て御守りしないといけないよね!」
ヨンハのこじつけに近い宣言は、ジェシンの茶店への立ち寄りへの十分は言い訳になる物だった。