㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
貸スタジオはおそらく小さめのサイズだろう。アップライトのピアノが一台と小さなテーブルと椅子が二脚。音楽のためだけのスペースだ。ダンスやバレエなどはできない。
ジェシンはピアノのふたを開け、雑にいくつか和音を弾いた。嫌な音はしなかった。音叉を持っているわけでも絶対音感があるわけでもないが、長く音楽をやっていると不快な音の外れ方はどうしてもわかってしまう。目立つ不調のないピアノらしいので、調律などの手入れはよくされているものの様だった。
渡されたスコアをザラザラと譜面台に並べた。一曲一曲は長いものではない。B4サイズの用紙見開きで二ページから四ページで収まっている。サビの部分は繰り返すことが多いから当然なのかもしれないが、とジェシンは譜面をざっと確認すると、椅子に浅く腰掛けペダルにつま先を軽く乗せた。
「強弱は最初は勘弁してくれ。」
そう言い置くと、テンポの速さを確認し、指を鍵盤に滑らせた。
うわ、と胸のうちでつぶやきながら必死で譜面を追う。最初に選んだのがなぜこの曲だった?!とジェシンは後悔したのだ。
『Night & Day』
ジャズのスタンダード。名曲だ。テンポは決して速すぎる事はないが、囁くようなボーカルに合わせた細かいタッチから始まる歌いだしが非常に難しかった。特に知っている曲だからこそ、ジェシンの頭の中にも理想の音源がある。ちょっとしたテンポの遅れや躓きに悔しい思いをしながら、Aメロ、Bメロと弾いていき、間奏部分は楽譜通りに弾いた。慣れた演奏者ならここでアドリブ演奏を入れるのだろうが、何しろジェシンは初見の楽譜だ。習っていたピアノ教室はどちらかと言えば音大や芸大に生徒を大勢送り出したいという目的を持った教室だったので、クラシック曲以外を弾くのを禁じるとは言わないが、いい顔をしなかったのだ。学校の文化祭で助っ人でバンドのキーボードをする、などと報告しようもののなら、将来を潰していいの、などと注意を受けるような。コンクールに出ている者も幾人もいた。ジェシンは母親の趣味で始めたようなものだし、本人も家族も全く持って音楽家の将来を描いていない家だったので、単にジェシンがピアノを好んで趣味として続けていたようなものだった。
どうにか弾き終わって、ふう、と息をつくと、ぱちぱちと拍手が起こった。当然それはユニが発したものだ。
「すごい・・・本当に初めて弾くんですか?」
「あ・・・はい。曲はさすがに聞いたことが何度もありますが・・・。」
うわあ・・・と胸を押さえたユニは、他の曲も弾くようにジェシンに勧めた。ジェシンは次々に与えられたスコアを試し弾きし、四曲目には、途中からユニが歌いだした。それこそジェシンもユニも産まれていない遥か昔のトロット歌手が日本でも流行らせた歌を、ジャジーなリズムに編曲したもの。それを軽くジェシンの伴奏に合わせて歌うと、ジェシンの方も一人で試し弾きするより雰囲気がよくわかって、逆に弾きやすかった。そうか、伴奏はやはり歌が入ってなんぼなんだな、と感心して弾き終わると、うん、いけるわね、とユニが頬を紅潮させていた。
「マスター、大丈夫。歌えます。とってもお上手なの・・・。ええ、時間通り・・・んっと、10分開始を遅らせて。はい・・・よろしく。」
内線電話に番号を打ち込んでバーに電話をかけたらしいユニは、振り向いてジェシンの傍に小走りに駆けよった。
「では今夜、よろしくお願いします。文句ない伴奏だわ。」
「だが・・・あなたの歌を邪魔するようなことはないかな・・・ユニさん。」
ためらいがちに名を呼ぶと、フルフルと頭が振られた。
「強弱は・・・って最初に言ってたでしょ?でも初見なのに結構強弱気にして弾いてくれてたわ。でも、そうね・・・。」
ユニはバッグをガサゴソと探りボールペンを出すと、赤い字で特に気を付けるべき強弱記号と速度記号に印をつけていった。
「あとはね、フィーリング。気分をね・・・出していきましょ!」
そして、体を動かしながら発生練習兼ジェシンとの音合わせを全曲行い、二人の初コンサートは時間を迎えた。