㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
そのリズムに最初に惹かれたのは、バンドネオンの哀切な響きを聴いたからだったとジェシンは記憶している。ダンス教室で聞きなれたワルツの管弦の音と違い、空気を孕んだ、それでいて最後にうわんと響きが膨らむ、アコーディオンとも違うその音に振り向いた自分を覚えている。フロアでは、大人の男女ペアが見つめ合っていた。これ以上ないほどに接したからだと至近距離で見つめ合うその態勢のまま、足が絡まり、離れ、リズムを刻みながら追い、追いかけられるように二人は踊る。一度も視線を放さないまま。見つめ合って。
「ショーがあるの。」
踊り終わった後、汗を拭きながらほほ笑んだのは、女性の方、ダンス教室の娘だった。国の社交ダンス界では敵なしと言われるペアであるが、それだけでは生活できない、と笑う。ショーで出演料を稼ぐのも仕事の一つだ。ダンスのためにヨーロッパの本場に行くことも考えたし、大会を通じてあちらに知り合いも増えた。誘いもあったけれど、体を悪くしたこの教室の主催者である両親を置いては行けなかったのだろうとはジェシンだって知っていた。高校生のジェシンにとって、いくつか上のこの娘は憧れのダンサーであり、教室の動向は他の生徒のおしゃべりによってうるさいほど耳に入っていたからだ。そしてこのペアのこれからのことも。
しばらく経ってから、ペアは解散した。男性ダンサーは一人本場イギリスに留学したのだ。語学とダンス両方の。それを知ったジェシンは、ダンス教室の窓から空を見上げ、まるで彼を見送るかのような彼女を見つけ、矢も楯もたまらず教室につながる階段を駆け上がり、ドアを開けた。
振り向いた彼女の瞳は濡れていた。彼女の希望が去ったことはジェシンにも痛いほど伝わってきた。ダンスのペアは後に夫婦になることがあるほど絆が強い。例え最初はダンスの相性だけで組んだのだとしても、ダンスは疑似恋愛と同じで相手を想う感情を乗せるものだ。それが本物の愛に変わることも少なくない。たった三年で社交ダンス界のトップペアにのし上がった彼らも、おそらくそういう感情は芽生えていたはずだ。けれど一人は遠くへ去ってしまった。愛情も、希望も彼女から取り去って。
「俺とペアを組んでください。」
ジェシンはドアを後ろ手に閉めると、ゆっくりと学生かばんを置いた。そして一歩一歩フロアに踏み込んでいく。制服の上着を脱ぎ、ぽいとかばんに向けて放った。皮のローファーの底がかつん、かつんと音を立てる。
「・・・あなたにはもう・・・。」
「俺には固定の相手はいない。知っているでしょう?」
「けれど・・・。」
社交ダンスに若い男性ダンサーは少ない。とても。スポーツはメジャーな物が人気だし、まずもって社交ダンスという競技を知るものが少ないのだ。ジェシンはたまたま母親が習っているためその存在を知っていて、母親の相手をしている間にジェシンが上達してしまい、面白くなって続けていたという理由がある。若く、背が高く、そしてうまいジェシンは、若い女性ダンサーから相手役として大人気だったが、そこそこは上手く踊れてもどうもジェシンには相手をしてやっているという感覚が抜けず、ペアを組むに至る相手は未だいないのだ。
「俺では物足りないでしょう。技術も未熟、あなたより年下だ、ユニ先生。」
ここではダンス教室の生徒と先生だったジェシンとユニ。ユニがジェシンの手を取り教えてくれたことだって何度もある。流れるようなワルツの曲に乗って、ジェシンが大きく一歩踏み出せば、それに自然に体を開いてくるりと回ってくれる、それをフロア中駆け回って一曲踊りとおしたあの快感をジェシンは今も忘れていない。ジェシンが中学生になり、ダンスを辞めようかと悩み始めた頃。ダンスは好きだが学生生活も面白くなり、学業も忙しく、教室に行けば何人かが自分と踊れと迫ってくることにも辟易していた。そんなとき、ユニが誘ってくれたのだ。私と一曲お願いできるかしら、新しく組む相手の人と踊って相性を見るための曲なんだけど、と。そう、今日去って行った彼のために練習するユニの相手役をジェシンは勤めたのだ。その時ユニは確か高校三年生だった。
「教えてください俺に。」
踊ることで芽生える感情を、愛を。あなたがすでに知ってしまったのなら、それを俺にぶつけて染めてほしい。あのバンドネオンの響きが聞こえたら自然にあなたの手を取り瞳を見つめる、そんなパートナーに俺を仕立て上げてほしい、先生。
「あなたとタンゴを踊りたい。」
コンチネンタルじゃない。魂と魂をぶつけ合い、体中で愛を語る。
「アルゼンチンタンゴを。」
あの日聞いた曲はリベルタンゴ。あの曲を踊り、上書きしたい。あなたの元を去る過ちを犯したあの男のことなど、忘れてしまえばいい。一度見ただけ。だがジェシンは調べた。アルゼンチンタンゴは振りは決めなくていい。その日の二人の感情を、特にリードする男性の想いをステップにするのだ。ピンヒールのかかとを鳴らし、女性が主張し求めるものをさらにステップに乗せる。そして織り上げる二人の世界。それがアルゼンチンタンゴだ。だからあの日のステップを真似はしない。新しいあなたの感情を、俺と。
一度俯いたユニが再び上げた顔。その表情から涙は消えていた。ゆっくりと歩いてステレオの傍に行く。そして振り向いた。
「あなたに私が御せるかしら?」
響くバンドネオン。ユニはそこから動かない。ジェシンはにやりと笑った。そうだな、女性の手を取るのはこちらからだ。失礼、お嬢さん。
曲は流れ続ける。構わずにジェシンはゆっくりとユニに近づいた。ユニは立っている。胸を張って。その姿は女性という性の誇りに満ちた美しいラインを見せつけるようだった。柔らかな胸のふくらみ、細い腰、膝だけのプリーツスカートから伸びる足首の締まった脚、赤いピンヒール。
腰を引き付ける。反り返ったユニの顔がジェシンを見上げ、そして強く見つめた。勿論ジェシンは釘付けだ。舐めるように瞳を鼻を、引き結ばれた唇を見つめて、そして手探りで手を握った。
ジャン!と和音が響く。一歩踏み出せば大きく一歩ユニが足を下げる。そして絡まるように回る二人。
曲が終わるまで、二人が視線を逸らすことは一度もなかった。