こんばんは。
前回頭出ししました、妄想力たくましく映画「エイリアン」シリーズを鑑賞して見えた「企み」について、少しずつ解きほぐしていきたいと思います。
今回はリドリー・スコット監督による、第1弾「エイリアン」。
この映画、凶暴なエイリアンに乗組員を惨殺させることによって、あることを実現したかったのではないかと思います。
それは、あえてダーウィンを引用するなら、
「すべての身体的、精神的資質は完全に向かって進歩する」とする、自然選択と生物淘汰の渦中に、人間を引き戻すということ。
人間はある意味、地球というフィールドで生物進化の頂点とでも言うべきところまで来てしまった。
(無論、人間サイドの視点としてですが)
あるいは、自然と隔絶された「人間界」とでも言うべき社会を構築したことによって、淘汰的な生物進化とは一見無縁の存在になってしまった。
それは人間からすれば安寧ですが、
生物、もっと言ってしまえば「生物の存在目的」(そんなものがあるとして)にまで立ち戻って解釈するなら、停滞な訳です。
そこで、人間を宇宙に放り出して、
繁殖性・強靭性・凶暴性という「種の保存三種の神器」とでも言うべき性質をパーフェクトに備えたエイリアンに襲わせた。
要は、単なる殺戮ではなく、生物淘汰の縮図として描く企みがあったのではないかということです。
個ではなく種単位での殺戮が暗示される訳なので、怖い話です。
なぜそういう結論になるのかというと、
ズバリ「続編(プロメテウス、エイリアン・コヴェナント(特にこっち))がそういう話です」ということにはなるのですが、
とはいえ第1弾「エイリアン」にも、その片鱗は見え隠れしています。
前回紹介した、印象的な目覚めのシーン、
あれは、サバンナにおける草食動物の出産のような、要は弱者の目覚めのようなものを連想させます。
(実際、その場面で大写しになるキャラクター(ケイン)は、幼体にとりつかれて真っ先に死にますし)
また、そもそもなぜエイリアンは腹を突き破って成体化するという設定なのか。
あれはまさしく、「出産」のメタファーではないのか。
(まあ、その方がグロいという理由はあるにせよ)
やはり、人間を生物種として相対化させようとする企みが、
第1弾「エイリアン」には随所に散りばめられているように思うんですよね。
そして興味深いのは、生物進化をめぐる「淘汰」の渦中に、
人間とエイリアン、そしてアンドロイドまでも取り込んでしまったところ。
つまりアンドロイドは、種として人間を淘汰する存在であり、
変異と淘汰によって完全さを希求する、生物進化の系譜と無縁の存在ではないということです。
アンドロイドの乗組員(アッシュ)に主人公(リプリー)を襲い掛からせ、それをメタクソに破壊した後で
アッシュに「パーフェクト・オーがニズム」と、意味深な表情で言わせるという、中盤の一連の場面。
あれがまさしくそのことを示唆していて、
「エイリアン・コヴェナント」のあのラストに繋がっていくんだと思うんですよね。
つまり、人間はエイリアン、
更に言うと、人間とエイリアンを手玉に取ったアンドロイドに淘汰される存在であると。
ちなみに「エイリアン・コヴェナント」では、
このあたりが「父殺し」という古典的テーマを纏いつつ、これまた非常に感慨深く描かれているのですが、、
まあ、ひとまずこれくらいにして、
次回はこういった全体を基に、ジェームズ・キャメロン監督「エイリアン2」を観るとこれまた面白い、という話をしたいと思います。