こんばんは、天野隆征です。
前回投稿から日が経ってしまいましたが、
押井守監督「機動警察パトレイバー 劇場版」の裏読みその②を書き留めたいと思います。
今回考えたいのは、レイバーを満載した洋上プラントがなぜ「方舟」と呼ばれるのか、
もう少し正確を期すなら、「なぜ、設定上『方舟』という名前にしたのか?」ということです。
作品を観る限り、その理由は明言されません。
冒頭のヘリコプターのシーンで
泉 「ねえ、何であれが方舟なわけ?」
篠原「俺が知るか!」
というやり取りがある程度。
しかし「方舟」なんて名前、やっつけやカッコつけでつけるにしては胡散臭すぎます。
というか、冒頭に上のようなやり取りを入れ込むこと自体が、「読み解いてみろ!」と言わんばかり。
それなら読み解いてやろうじゃないか!
ということで、妄想力発動です。
結論から言うと、「方舟」「HOS(が組み込まれたレイバー)」「(台風をトリガーにした)首都崩壊の危機」
これらは全部、『旧約聖書』のノアの方舟になぞらえた、一種の世代交代の物語を暗に仕込んだ結果なのではないかと思うのです。
なぜそうなるのか、一つずつ説明しますと、
まず「方舟」の引用元と考えられるノアの方舟とはどういう話だったか、ということです。
ざっくり言うなら、神への信仰心を忘れ退廃にふける旧人類を洪水で一掃して、
善き民としてのノアの一族を、新人類として残そうという神(ヤハウェ)の計画の物語です。
旧人類は滅んで、「方舟」に乗ったノアの一族は生き残って栄える。
そういう話。
そして、前回裏読みした通り、
どうもこの作品、レイバーを単なる機械と見ていません。
神の姿を模し、神の言葉によって駆動するという点で、
少なくとも存在という意味では、人間に変わらないものとして描こうとしている節があります。
そしてもちろん、レイバーは人間の後に造られた。
つまり、作中の「方舟」に載ったレイバーというのは、
「方舟」に乗ったノア、ということの暗喩なのではないか?ということです。
そして、退廃にふける旧人類たる、
(首都圏の)人間というのは、台風をトリガーにしたレイバーの暴走によって一掃される。
高層ビル群、大深度地下、そして原発
それらの壊滅によって「旧人類」が滅びた地に残るのは、「新人類」としてのレイバー(機械)である。
そういうことをやりたかったんじゃないかなと。
そう考えると、一連の計略を帆場英一(E.Hoba)という、エホバ(=ヤハウェ)の名を冠する人間が仕組んだという設定が、もの凄く効いてくるわけです。
そして、「方舟」で繰り広げられるレイバーとの戦闘シーンというのは、
新旧どちらが生き残るのかという、生存闘争と捉えられるのです。
人間とレイバー(機械)の全面戦争。
もの凄く印象的なのが、「方舟」で暴走するレイバーを止めるときに、
「橋の向こうにレイバーが集結・対峙していて、そこに太田が突っ込んでいく」という状況が無線で語られるんですね。
これなんて、まるっきり戦争描写そのものですよね。
では、何の戦争なのか?
ずばり、旧人類と新人類の生存を賭けた戦いであり、
作中の「方舟」の崩壊とは、つまりは全面戦争における旧人類(人間)勝利の寓意である。
更に言うと、ラストシーン、98式(旧型。泉が操縦)と零式(新型。HOSで駆動)の決闘で前者が勝つということが、何よりもそれを象徴している。
(だからこそ、エンディングはハッピーエンドが相応しい。…というのはこじつけです)
…そういう物語を、暗に仕込みたかったんじゃないかな、、
と。個人的にはいい線行っていると思うのですが、果たしてどうでしょう。。
そして実は、こういう「種」としての人間(とロボット)の構造転換というのを
非常に(人間にとって)悪意に満ちた方法でやってのけた監督がいるのです。
それはリドリー・スコット監督。作品は「エイリアン」
「エイリアン」、昔はただの殺人ホラー映画だと思っていたのですが、とんでもない。
少なくとも一連の作品群のうち、リドリー・スコット監督ものは相当に深いテーマが潜んでいます。
(ついでに言うと、リドリー・スコット監督「エイリアン」と、ジェームズ・キャメロン監督「エイリアン2」を対比すると、これはこれで面白い主張の差異に気づきます)
つい最近気づきました。どこかで書こうと思いますが。
…話がそれました。
押井守監督作品は、作中に個人的テーマというか裏テーマが隠れていることが多い気がしています。
「機動警察パトレイバー 劇場版」については、上の通り。
そして続編となる「機動警察パトレイバー 2 the Movie」にも、これまた興味深い裏テーマがあるように思います。
それについても、どこかで書きたいなと思いますが、…ひとまず今回は以上です。