千と千尋と虚飾 | 天野という窓

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渋谷で働くサラリーマンのもう一つの顔、小説家:天野の日常を綴るブログです

こんばんは、天野隆征です。

 

今回は「千と千尋の神隠し」シリーズのラストとして、

この作品と社会を重ね合わせたときに、どんな主張が読み取れるのか書き留めたいと思います。

 

ジブリ作品の面白いところは、

どんな作品でも多かれ少なかれ、社会に対する不信というか違和感が暗に含まれているところなんですよね。

ご多分に漏れず、「千と千尋の神隠し」にもそれがあるように思います。

 

では「千と千尋の神隠し」における社会への暗喩とは何かというと、

端的に言えば「商業主義という虚無」だと考えています。

 

うわべだけきれいに取り繕っていても、中身は空っぽ。

そういううさん臭さや虚無感のようなものが暗に描かれていて、その象徴がカオナシであるという。

 

まず冒頭から見ていきたいのですが、

千尋達一行が迷い込む「油屋」というのは、神道なのか、もっとプリミティブで土着の神様なのか、明確には分かりませんが少なくともはるか以前において「神聖」とされた地に、バブル景気に浮かれた人たちがモルタルのレジャー施設を立てちゃいました、という設定ですよね。

 

つまり中身、というかルーツが無いんです。

土着の神様というルーツを放棄して、金儲けという虚無をその上に建造してしまった。

朱色の、いかにも「和です」と言いたげな虚飾を纏った門を築いて、古くからの神という「心の故郷」をないがしろにしてしまった訳です。

 

そして、三途の川を彷彿とさせる(というか完全にその暗喩でしょう)石の川を超えると、

これまたコテコテの、食い物屋だらけの商業主義が幅をきかせている。

 

その食い物屋街というのがこれまた特徴的で、要はハリボテなんですよね。

客引きのために表面だけ小ぎれいに塗装して取り繕っていますが、すぐ後ろは生活感丸出しの古びた日本家屋。

そんなハリボテの店で、夜になると幽霊みたいな店員(というか幽霊?)がおいでおいでする。

 

これは恐怖でありつつ、非常に虚しい光景です。

(まあ、そうやって八百万の神様から金をせしめている訳なので、ある意味逞しいと言えば逞しいですが、、)

 

何より湯屋です。

あらん限りの贅を尽くしたように見えて、実は中身は空っぽ。

庭とか壁とか天井とか、あらゆるところに「文化的なもの」をコテコテに配置していますが、一貫して「文化」を感じない。

 

例えば庭に関して言えば、椿と紫陽花とその他の花が同時に満開だったりする訳です。

冬の花と梅雨の花と、その他の花が一緒に咲いている。四季なんてへったくれもありません。

似非日本的情景。どこまでも浅ましく下品で、その意味で「レジャー的」と言えば確かにしっくりくる光景です。

 

そこの関係者はと言えば、

上から下まで、カネカネカネでお客様精神なんて微塵もなさそう。

(「余りものでもなんでも出せ!」とか「こちらにも一撒き」とか言っちゃうくらいですから)

 

要はとことん商業主義なんですよね。

中身のない商業主義。豪華絢爛を装っていても心はないという。

(あれ、なんだか美味しんぼっぽくなってきたな、、)

 

そして、そんな湯屋で肥大化するカオナシ。

ルーツやアイデンティティを持たず、虚無の塊みたいなキャラクターが、虚無を物質や虚飾で埋めようとして、あまつさえ物欲にまみれた者たちを飲み込んで醜く狂暴化するという。

 

これを、社会の縮図と捉えず何と捉えればよいでしょう。

宮崎駿監督の言葉「カオナシは誰の心にも存在する」とは、つまりはそういうことなのかなと。

 

では、カオナシはどのように解決を見るのかというと、

(よく分からない)紆余曲折を経て、最後は銭婆の手作りと手仕事の世界に、居場所を見つけて落ち着く。

 

…とはいえ、個人的には商業主義も虚飾も否定するつもりはありません。

それによって、社会、というか経済が成り立っているのはまごうことなき事実ですので。

かく言う私も、サラリーマンとして商業主義や虚飾の恩恵にあずかっている訳ですし。

 

結局のところ、それを自覚して向き合うということが、重要であり意義のあることなのだと思います。

だからこそ、そのきっかけとして「千と千尋の神隠し」は観甲斐があるのです。