千と千尋と心象 | 天野という窓

天野という窓

渋谷で働くサラリーマンのもう一つの顔、小説家:天野の日常を綴るブログです

こんばんは、天野隆征です。

 

今回も、久々に「千と千尋の神隠し」を観て思ったことを、つらつら書き連ねたいと思います。

 

いつにもまして根拠薄弱な、もはや感想としか呼べないものですが、

なぜか物凄く引っかかったので、書いておこうかと。

 

アニメの演出には詳しくありませんが、

「千と千尋の神隠し」、全体的に心象風景としての趣が強いなーと感じました。

 

例えば、この作品はほぼ全編にわたって強いセピア調の効果が効いています。

白が全然白くなく、空の青も年季が入って色褪せした感じの青で、「思い出の原風景」といったような郷愁感ある色合いになっていますよね。これが一つ。

 

もう一つは、これはもう「そう思った」としか言いようがないのですが、

この作品の背景は、背景というよりは絵画という印象が強いんですよね。

 

なぜそう感じるのかは分解できていません。

光の描き方なのか、色使いなのか、筆致の残り方なのか、はたまたセピア調の効果でそう感じるだけなのか…

とにかく、「絵画です」という印象をとても強く持った背景なのです。

 

あとは炎の描き方ですね。

炎そのものを描写するのではなく、影で表現するんです。

影をもって、光を語らしめるという。

 

カマじいの場面なんて、久々に観てドキッとしました。

ああ、こういう描き方があるのかと。

これも結局、現にそうある炎、ではなく影から想起される炎を「観て」いる訳ですよね。

 

それらが総合された結果なのか、

この作品は現にそこにある風景というよりは「心象風景」を描いている、という感じを強く受けるんですよね。

 

この作品を「観る」という行為についても

目の前で展開される物語を観ているというより、それによって脳内で拡大再生産されたものを「観て」いるという感じになる。

 

ラピュタから始まり、もののけ姫、紅の豚と連続で観てきた中では

そういう感覚を一番強く持ったのが、「千と千尋の神隠し」なんですよね。

(なので、ストーリー展開に多少粗があっても「あー、いい映画観たな―」で終われるという、、)

 

…さて。

かなりモヤモヤした書きぶりになりましたので、次回はもう少し具体的現実的に、

「現代社会とリンクさせたときに、この作品はどう観れるのか?」について、読み取ったことを次回書き留めようと思います。