こんばんは、天野隆征です。
今回は小説の地の文について。
地の文が一人称か三人称か。それは作品のスケール感や没入性、スピードなどを大きく左右し、
結果として小説の印象を決める非常に重要なファクターになるということは、小説を読む方はよく知るところと思います。
この人称の設定、書く側としては非常に悩むところであります。
なぜなら、一人称と三人称は驚くほどにトレード・オフの関係にあるのです。
三人称、つまり客観的な「神」の視点として小説を書く場合、
メリットは世界観や広さなどをしっかり描写できる点です。そしてその奥行きある世界の中で、登場人物の関係性や感情変化などを客観性を保ちつつ丁寧に追いかけられるので、スケール感と構造のある作品を書きやすいです。
一方、デメリットは没入感の薄さ。そしてそこから来る(一人称と比べての)感情移入の難しさ。
実はこれ、この時代にはかなりのマイナス点だと思っています。
なぜかというと、私もそうなのですが、
今の時代ゲームやアニメ、VRなど、没入性の高いコンテンツに慣れすぎていて、よほどの工夫をしない限り三人称の非没入性に耐えられない気がしているのです。
FPSゲームやVRは最たる例ですが、アニメ等にしても没入感を強調する演出を多分に使っていますし、何より即物的な「絵力」によって没入性が担保されています。
そういった、ある種「没入性過多」と言えるような状況に対して、「いや、小説はそういうんじゃないんで、、」とは言えないと思うのです。
三人称で没入感を出す場合、広大で緻密な世界を設定して世界そのものに没入させるという方法があります。
SFなんかは分かりやすい例ですね。しかしこの場合、世界が巨大な分、相対的に主人公の存在が希薄にならざるを得ない、というこれまた悩ましいジレンマを生みます。
では短絡的に、一人称にしたらいいのかというと、そうもいきません。
一人称は基本的に、世界のすべてが主人公の視点で書かれるため、ボキャブラリーが「主人公が使いうる語彙」に限定されるのです。
そこを踏み外すと、例えば異様にセンチメンタルなおじさん主人公や、異様にスレた少年主人公が誕生してしまいます。
視点が一人称に限定されるので、世界観の描写に制約ができるのも大きな問題です。
まあこれらは主人公の設定やシチュエーションの工夫である程度は解消でき、またそういった制約条件がいい味を出してくれる、ということもあるのですが、やはりその小説が潜在的に持つ奥行き感を大幅にスポイルしている感は、書いていて否めません。
こういった背景から、私の場合は折衷的に、三人称を基本に要所で一人称に切り替わるような書き方が多いのですが、
このあたりは常に悩みどころであり、もう少しうまくコントロールしたいところです。
人称、奥が深いです。