「自己分析をしろ」というのが就職活動だが、
そんなこととは関係なく、自分を知るというのは何となくやってこなかったことである。
特に、家族のことについては、僕はあまり考えないようにしていた。
元々母と父は喧嘩が多かった。
幼い頃から喧嘩を見て、旅行先でも喧嘩をし、遂には包丁を持ち出しての喧嘩にまで発展した。今でも微かに思い出せるその光景は、僕の頭の中に焼き付いているのだろう。
どっちかといえばわすれたいことだからだ。
自己分析はもしかしたら生きるために役に立つかもしれない。
立たなかったとしても、僕を現実から逃避させてくれる。
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父の記憶は多くは残っていない。
僕の幼馴染達の父親の中では1番まともなのではないか、
というのが僕の中の評価ではあるのだが。
父は1つの企業の社長だった。
とはいっても、そんなに大きな企業ではない。
若くしていくつかの仕事をした後に独立したのだという。
この時点で少し変わっているな、とは思う。
社長ゆえの忙しさからか、家族3人で食事を取っていても電話がかかってきてどこかへ行ってしまうし、仕事で僕の起きている時間帯に帰ってくることは少なかった。
だからこそ記憶があまり残っていないのだ。
それでもまだ家族3人だった頃は旅行へ行った。
よくわからない田舎の風景が頭の中に混在しているのは、僕がどこかへ連れて行ってもらった証なのだろう。例えば、寝ている間に車に乗せられ、景色が綺麗な田舎に連れて行ってもらったこともある。
そこでカヌーに乗る僕の写真が飾られていた。今はどこかへいってしまったが。
忙しい中でも家族サービスは忘れない人だったのだろう。
母に少し話を聞く限り、僕が生まれてから父は借金を辞め、家にお金を入れるようになったと聞いている。つまり、「息子」というものの存在が人を変えることがあるということだろうか。
それでも、冒頭に書いたように、父と母は喧嘩した。
子供心に思ったのは「仲良くしてほしい」「つまらないことで喧嘩しないでほしい」「声が大きすぎて恥ずかしい」の3つだった。父は母と違って温厚そうには見えたが、店員にブチ切れた時の態度や、幼い僕が拗ねていた時に見せた苛立ちから、本来の性格と外見の性格があるのだろうなと思った。当時10代にも満たなかった僕だが、思い返すと色々考えているものである。
最後の夜、母の作った料理に対して父は罵倒を浴びせ、喧嘩に発展した。
包丁を持ち出す、というのは僕にとって衝撃的な光景で、他の家庭にこんなことは無いだろうなと漠然と思っていたが、大学の先輩の母も包丁を持ち出していたというのだから少しだけ驚いた。包丁は女の武器なのだろうか。
そんな大喧嘩が起こり、しばらく父が帰ってこなくなった。
そして、母親から「父はもう帰ってこない」と告げられた。
その時の僕のリアクションは「そんなことは許さない。僕がなんとかする。」だった。齢7歳ほどの泣きながらの抵抗だったが、何が出来るわけでもない。
僕は頭に何も入っていない、天才児でもなんでもない子供だったからだ。
基本的に自分のことで頭がいっぱいな夢想家な僕は、何も止めることが出来なかった。
離婚後の父との記憶のほうが残っている。
何故ならそれが今の関係だからだし、離婚する前よりも、後のほうが長いのだ。
離婚後は父から定期的に連絡があり、会ってご飯を食べたり、お金をもらったりした。養育費だろう。それが払えるというのは当たり前なのかもしれないが、大変だし、すごいことだと思う。
幼馴染達の父親の中では、唯一僕の父だけがそれをなしているからだ。
思春期の長かった僕、中身が何も詰まっていなかった僕は、母とたまに会う父の司令に従い生きていた。そもそも逆おうにも「逆らって何かしたい」とすら思わなかったのだ。だから、父に会えば髪を短く切られた。天然パーマでチリチリとした気持ち悪い僕の髪の毛は、短髪にすることでより残念なオーラを醸し出す。
そんな風に長らく父と、他人行儀に接してきた。
幼い頃の記憶だけで父と認識することは難しくて、話題もなく、全く別の理由で人間自体に不信感を抱いていたからだ。ただ、大学3年生になって初めて彼を自分から頼った。
「機材調達と撮影をお願いしたい」
学園祭を運営する僕の中で、確かに最初から「父を頼る」方法はあった。だが、使いたくはなかった。僕だけの責任で動かせるか不安だったことも、団体として動くからには団体内で完結させたかったことも、父と連携が取れるかどうかも、全てが不確定要素だったからだ。
だが、1ヶ月程かけて駆け回ったあげく調達出来ない機材、部室が差し押さえられて乱れる団体内、1週間後に迫る学園祭。僕は遂に父を頼った。
あの学園祭は100%成功をおさめた訳ではなかった。
僕の中では60か70%といったところである。
しかし、父という存在を頼れなかったら30%か40%になってしまっていただろう。
その意味で父には感謝の気持ちが溢れた。
ただそれは父への直接的感情とは言いづらい。それは団体を愛していた僕が、団体を通じて父に感じた感謝でしかない。
正直ここまで書いたところで分析は出来たとは言いづらい。思うのは、僕の中で「父親」というものが、どういうものか、イメージ出来ないということである。将来自分が父親になったとき、子供への接し方の一例が無いようなきがする。
父から愛を感じた経験はある。
ただ、僕から父に愛はあるのだろうか。
愛されるべき関係に自分と彼はあるのだろうか、とその時感じてしまった自分が居た。
人間はいずれみんな死ぬ。
天珠を全うするのだとしら、父も老いて、徐々に弱っていくのだろうが、その時僕は彼に対してどうやって振る舞うのだろうか。
感情は大切で、そして、時間も大切だと思う。
誰かを大切にしたいと思うならば、出来る限り一緒に居たいし、居てほしいと思った。
僕は将来子供に対してどう思うだろうか。
そもそも子供をなせるのだろうか。