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高をくくる


独り言

うちの家系に多いのだろう独り言。僕も中学生の頃は相当多かったと思う。因みに独り言をする理由というのは特別あるわけではなかった。

ただ、脳内で色んなシチュエーションを展開してそれに対するリアクションがつい漏れだしてしまうことがあった。

それでいて、基本的には無自覚である。

「独り言が普通ではない」と自覚したのがいつ頃からかは分からないが、意図的にそれを抑えるようになり、今ではそこまで漏れたりはしない。

他人に触れるというのはそういう意味でも重要なのではないだろうか。

母親は僕がいようがいまいが、どこだろうが、基本的に独り言だらけである。そして、声が大きく、内容も不平不満や意味のない言葉が多い。聞こえてきてこっちが滅入ってくる。

いつか「独り言言ってそう」と言われたことを覚えている。

最近少しだけ独り言が漏れるのは、他人と話していないからなんじゃないかなと思った。ふいに「自分の声ってどんなだっけ」「声ってどんな風に出すんだっけ」と疑問に思ってしまう。

独り言を言っていた時代だって、僕は殆ど孤独だった。

独り言はセルフコミュニケーション?




初めての業界、ブライダル系へ。
運命的なものを感じてエントリーした企業であり、遊び心や制度なども魅力的であった。

三時間の説明会を終えて大学に向かった。

部員の男と話す。
帰る。

1日がまた終わる。
これで5月も半分が終わったことになる。6月になれば2017年も半分が終わったことになる。

早いものである。
この期間に僕は何が出来たというのか。

 

雨が上がり、いい天気だった。

後輩に誘われたのと

代表を務めている団体の年齢層の高齢化を食い止める為に

京都で行われる企画に参加してきた。

 

そこで感じたのはジェネレーションギャップである。

昔こういう企画に参加した時は殆どが顔見知りだったものだが

今や自分は4回生。

 

殆どの人間は忙しく、このようなところには顔を出さないのである。

 

京都の街へは北浜駅を通じて往復800円程度で

行けることが分かった。

 

とはいっても、特に用事はない。

 

月曜日からは就職活動再開……というような感じである。

5月も後半戦に入るのだろうか。

早いものだ。

 

サークルに入って4年目になる。

サークルに入ってから僕は毎年変化していった。

大学に入るまで0だった体に急激に色んな体験をつぎ込んだからだろう。

 

1年目は楽しさを覚え、

2年目は苦しみを覚え、

3年目は成長と見守りを覚え、

4年目の今は……

 

サークルも変わりゆくもの。

運営者が1年で変わってしまうこの団体の体制ゆえにそれは仕方ない。

ただこんな台詞を聞いたことがある。

 

「今年と比べられて、去年が悪いみたいに言われると傷つく。行きたくなくなる。」

 

僕の前任の代表が言った言葉だった。

ある意味では、もっともだった。

頑張ったものが比べられ、批判されて嫌なのは当たり前だろう。

ある意味では、仕方ないことだった。

「変わった」ということは、去年の方法を遵守する気がなかったということだ。

 

僕が前任となった今、同じではなくとも、似たような気持ちになっている。

不満を誰かに聞いてほしい気もしたが、

相手も居ず、後輩にプレッシャーを与えまくる訳にはいかないので、

ここにでも吐き出しておく。

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追いコンが4回生を向いてなかった

 本来こんなことは僕が考えるべきことではないのだが、思ったことはこれである。追いコンとは追い出しとはついているものの、4回生をメインにした行事だった。普通に企画を用意して4回生と一緒に参加する……それはそれで充分だが、それでいいのか、と少し疑問に思ったのだった。これが世にいう運営脳だ。

 

●PowerPointの消失

 僕の団体が関西圏で唯一抜きん出ている点は、活動ごとにPowerPointを駆使することだった。時に次回予告や行事の振り返りの動画を流し、板書のタイムロスを防ぎ、派手な演出も可能にする。毎回の活動で中身を変えたり、飽きないようにスライドのデザインを変えたりするのは中々大変だったが、それなりに評価されていたことは新入生の声から分かっていた。

 「負担が大きい」という理由で無くなってしまった。

 

企画が単調に

 グループで相談して発表。という構造が同じで考える内容が違うだけの企画が増えた。

 

昔の資料を使いまわし

 新入生に対して配る・教える資料が昔の使いまわしになっている。「参考に」とはいったがまさか使いまわされるとは。内容が結果同じだったとしても資料を作ることを通して分かることもあると思うのだ。教え方も頭の中でイメージ出来るだろう。

 

飲み会が消えた

 別に構わないといえば構わないのだが、盛り上がりすぎる雰囲気を消す為に消されたようなので悲しいといえば悲しい。

 

●行事の縮小化

 行事の場所が何故かアクセス最悪の場所になり、定員も半分以下に。どうしてこうなってしまったのか。おまけに終わった後の飲み会と、参加者の誘導もなくなった。

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変わることは悪いことではない、と自分に言い聞かせる。

それに去年自分が頑張った根源的な理由は

「自分の頑張っている姿を見せて、将来後輩達に頑張って欲しい」

ということだった。

 

このことを考えた時、

結局は自分の責任ではないのかと返ってくる。

何かもっと出来ることはなかったのだろうか。

決して雰囲気も悪くなかった。

みんなで団結した瞬間だってあったはずだ。

 

所詮僕は憧れた人達の模倣をしたに過ぎなかったのだろうか。

このサークルから真に卒業する時、僕は何を思う。

 

 

先週の水曜日、地元の手話サークルに参加した。

家から徒歩5分ほどで着くその近さに何より驚いた。

2回生くらいの時に見つけられたら、もっと良かったのだが。

 

僕の住んでいる地方では1番聾者が多いサークルという、遠いのにわざわざ2時間の活動の為に車で来ている人も居るみたいだ。

 

突撃、とはタイトルに載せたものの、僕には昔のように突撃というような元気はなかった。

ひっそりと部屋の前に立ち、「見学なんですけども……」と話しかけた。

 

周りを見渡して分かる、学生は居ない。

平均年齢40・50歳くらいだろうか。

 

所謂、聾者の手話が溢れてはいたが、そこまで早くないし、読み取りやすい。

サークルだからお互いに気を使っているところもあるのだろうか。

 

活動内容自体は新しい手話の紹介、という簡単な内容だったが、

活動メンバーにもやはり聾者に関わる活動に積極的な方が居るようで

「新しい手話」に関するエピソードを仰っていた。

それは以下のものだ。

 

新しい手話はどうやら「ろうあ者大会」で決められるらしい。

さて、これからこの単語を決めましょうと、この単語の表し方、誰か考えられる人。

そういって、ステージにあがった者たちが順番に表していく。

拍手の規模で1番人気のものが採用されるという。

 

この話を聞いた時、雑いな……、という印象を受けた。

要するに思いつきなのだろうか。

 

とはいっても、それが日本手話研究所のHPに載せられ、新しい手話として本に載るか、といえば別問題らしい。

 

サークルメンバーの方が表彰まで貰った「カリスマ」の手話は結局採用されず、「神様」と似たような手話表現になったそうだ。新たな話のネタを知れて良かった。

 

平均年齢が高すぎるサークル、かつ、自分が4回生であるので、

ここに通おう!というような気にはならない……

しかし、確実に行ってよかったとは思う。

 

さて、卒業までに色んなサークルに行ってみたいものである。

4回生の身だが、まだ出来ることを、活動の幅を知ってみたい。

 

流石に何もない日が2日続くと僕はダメ人間に戻ってしまう。

自力で自分を律することが出来ない。

僕は僕のために頑張ることが出来ない。

 

今日は火曜日に発表予定の卒業論文……のための資料を少しだけ集め、

団体の勉強合宿の準備をした。

 

雨が降っていた。散歩するにも向かないこの気候。

ため息が出そうだった。

 

朝から人の頼みで【会議のやり方】についての

資料を作ることになった。

2時間かけて作ってみた。相変わらず僕は長い文章をよく書くものだ。

 

最近は朝と昼の2回でご飯が終了してしまっている。

確実に食べる量が減ってきているが、満腹なのだから仕方ない。

嗜好品を味わいたい気持ちはある。しかし、家にはそのたぐいがない。

 

僕は去年までの思い出に生きている。

きっと今年の目標を終えた後も、去年までの思い出を形にし続けるだろう。

過去があっての今なのだ。

それだって悪くないだろう。

 

1つの選択が未来を大きく変えることはあると思う。

僕は恐らく今年に大きな岐路に立たされる。

何を選択するのだろうか。

不確定要素の多い選択肢は、運営のようにはいかない。

そして、運営のように機会的に考えることを、僕の中にある少しばかりの倫理観が許さなかった。

   

 

「自己分析をしろ」というのが就職活動だが、

そんなこととは関係なく、自分を知るというのは何となくやってこなかったことである。

特に、家族のことについては、僕はあまり考えないようにしていた。

元々母と父は喧嘩が多かった。

幼い頃から喧嘩を見て、旅行先でも喧嘩をし、遂には包丁を持ち出しての喧嘩にまで発展した。今でも微かに思い出せるその光景は、僕の頭の中に焼き付いているのだろう。

どっちかといえばわすれたいことだからだ。

 

自己分析はもしかしたら生きるために役に立つかもしれない。

立たなかったとしても、僕を現実から逃避させてくれる。

 

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父の記憶は多くは残っていない。

僕の幼馴染達の父親の中では1番まともなのではないか、

というのが僕の中の評価ではあるのだが。

 

父は1つの企業の社長だった。

とはいっても、そんなに大きな企業ではない。

若くしていくつかの仕事をした後に独立したのだという。

この時点で少し変わっているな、とは思う。

 

社長ゆえの忙しさからか、家族3人で食事を取っていても電話がかかってきてどこかへ行ってしまうし、仕事で僕の起きている時間帯に帰ってくることは少なかった。

だからこそ記憶があまり残っていないのだ。

 

それでもまだ家族3人だった頃は旅行へ行った。

よくわからない田舎の風景が頭の中に混在しているのは、僕がどこかへ連れて行ってもらった証なのだろう。例えば、寝ている間に車に乗せられ、景色が綺麗な田舎に連れて行ってもらったこともある。

そこでカヌーに乗る僕の写真が飾られていた。今はどこかへいってしまったが。

 

忙しい中でも家族サービスは忘れない人だったのだろう。

母に少し話を聞く限り、僕が生まれてから父は借金を辞め、家にお金を入れるようになったと聞いている。つまり、「息子」というものの存在が人を変えることがあるということだろうか。

 

それでも、冒頭に書いたように、父と母は喧嘩した。

子供心に思ったのは「仲良くしてほしい」「つまらないことで喧嘩しないでほしい」「声が大きすぎて恥ずかしい」の3つだった。父は母と違って温厚そうには見えたが、店員にブチ切れた時の態度や、幼い僕が拗ねていた時に見せた苛立ちから、本来の性格と外見の性格があるのだろうなと思った。当時10代にも満たなかった僕だが、思い返すと色々考えているものである。

 

最後の夜、母の作った料理に対して父は罵倒を浴びせ、喧嘩に発展した。

包丁を持ち出す、というのは僕にとって衝撃的な光景で、他の家庭にこんなことは無いだろうなと漠然と思っていたが、大学の先輩の母も包丁を持ち出していたというのだから少しだけ驚いた。包丁は女の武器なのだろうか。

 

そんな大喧嘩が起こり、しばらく父が帰ってこなくなった。

そして、母親から「父はもう帰ってこない」と告げられた。

その時の僕のリアクションは「そんなことは許さない。僕がなんとかする。」だった。齢7歳ほどの泣きながらの抵抗だったが、何が出来るわけでもない。

僕は頭に何も入っていない、天才児でもなんでもない子供だったからだ。

基本的に自分のことで頭がいっぱいな夢想家な僕は、何も止めることが出来なかった。

 

離婚後の父との記憶のほうが残っている。

何故ならそれが今の関係だからだし、離婚する前よりも、後のほうが長いのだ。

離婚後は父から定期的に連絡があり、会ってご飯を食べたり、お金をもらったりした。養育費だろう。それが払えるというのは当たり前なのかもしれないが、大変だし、すごいことだと思う。

 

幼馴染達の父親の中では、唯一僕の父だけがそれをなしているからだ。

 

思春期の長かった僕、中身が何も詰まっていなかった僕は、母とたまに会う父の司令に従い生きていた。そもそも逆おうにも「逆らって何かしたい」とすら思わなかったのだ。だから、父に会えば髪を短く切られた。天然パーマでチリチリとした気持ち悪い僕の髪の毛は、短髪にすることでより残念なオーラを醸し出す。

 

そんな風に長らく父と、他人行儀に接してきた。

幼い頃の記憶だけで父と認識することは難しくて、話題もなく、全く別の理由で人間自体に不信感を抱いていたからだ。ただ、大学3年生になって初めて彼を自分から頼った。

 

「機材調達と撮影をお願いしたい」

 

学園祭を運営する僕の中で、確かに最初から「父を頼る」方法はあった。だが、使いたくはなかった。僕だけの責任で動かせるか不安だったことも、団体として動くからには団体内で完結させたかったことも、父と連携が取れるかどうかも、全てが不確定要素だったからだ。

 

だが、1ヶ月程かけて駆け回ったあげく調達出来ない機材、部室が差し押さえられて乱れる団体内、1週間後に迫る学園祭。僕は遂に父を頼った。

 

あの学園祭は100%成功をおさめた訳ではなかった。

僕の中では60か70%といったところである。

しかし、父という存在を頼れなかったら30%か40%になってしまっていただろう。

その意味で父には感謝の気持ちが溢れた。

 

ただそれは父への直接的感情とは言いづらい。それは団体を愛していた僕が、団体を通じて父に感じた感謝でしかない。

 

正直ここまで書いたところで分析は出来たとは言いづらい。思うのは、僕の中で「父親」というものが、どういうものか、イメージ出来ないということである。将来自分が父親になったとき、子供への接し方の一例が無いようなきがする。

 

父から愛を感じた経験はある。

ただ、僕から父に愛はあるのだろうか。

愛されるべき関係に自分と彼はあるのだろうか、とその時感じてしまった自分が居た。

 

人間はいずれみんな死ぬ。

天珠を全うするのだとしら、父も老いて、徐々に弱っていくのだろうが、その時僕は彼に対してどうやって振る舞うのだろうか。

 

感情は大切で、そして、時間も大切だと思う。

誰かを大切にしたいと思うならば、出来る限り一緒に居たいし、居てほしいと思った。

僕は将来子供に対してどう思うだろうか。

 

そもそも子供をなせるのだろうか。

 

 

昨日家に帰る気力も突きてしまい、隣の家のソファーで寝てしまった。暑くなっているとはいえ、そんな状態で寝てしまった僕の体は冷たくなっていた。

 

今のこの状態は自分にとってでなく、他の人にとっても良くない状態だといえる。

 

就職活動も、自分の愛した団体も、

今年取り組もうと思っていたイベントも、

全てが上手く回っていない今。

 

自分の周りの運というか、流れのようなものが壁にぶち当たっているような気がした。

 

それでも諦める訳には、途中で全てを終えてしまうことは避けたかった。

もしかしたら叶わないことかもしれないが、

僕にはまだ生きて、何かを頑張る理由があると思う。

 

まだ5月。

覚醒してくれ自分。


疲れた。
精神力が空になったような気がして、疲れきっていた。

自分の中で矛盾のようなものがあることがわかる。自分が欲しいものを手にいれようとすれば、命を懸けて頑張った団体から離れなければならない。

体は疲れきっていたが、面談の予定を入れていたので、流石にキャンセルするわけにはいかなかった。

面談は実りあるものだったといえる。やはり就職活動は面白い。ただからだのだるさが邪魔をする。

いつになく不満がたまっていた。
昨日同期のLINEが悪い方向で盛り上がった。愛ゆえにと思えばきれいな気もするけれど、なにがいいのか、何が正しいのかは、誰にも言い切れないだろう。

お腹がいたかった。
昨日からずっとだ。どうして?

 

 

また久しぶりに泣くことになった。

泣きすぎて目が腫れそうだった。

 

覚悟を決めて話し合いをするつもりだったが

現実にそれをするのは、これほどまで違うことになるとは。

 

精神のタンクがあるとしたらもう空になってしまった気がする。

しばらく休憩。