no title -27ページ目

no title

高をくくる


起きて顔を洗う。

うどんを食べる。

パソコンを触る。

テレビをつける。

チャーハンをつくる。

チャーハンを食べる。

とある企画運営が、「なんか違う」の一言で詰まっていた。

学生とは言えど、関わるもの全員のスケジュールに影響するはずの運営が「なんか」などと曖昧な言葉で全てを止めてしまっていいものだろうか。

僕にはまるきり理解できなかった。

会議に向かっていたが、僕は重大なことに気付いていた。お金がなかった。

「83円」

これが僕の残金である。
これでは目的の駅で降りることは出来ないのだ。


近所で学園祭が開かれていたので、行ってきた。2年前には後輩をつれていき、日焼けした大学である。

最早その学園祭に同期達の姿はなかった。時の流れである。仕方ない。

4人でドライブをした日はいつの日か。過ぎさってしまった。言葉を交わすことも殆どなかった。僕のせいか。それとも。

今代表を務めている団体の人達と話し、はや半日。
僕は日焼けした。

日焼けでもしないとやってられないのだ。もっと日焼けしたらいい。

でも、就職活動で不利になるかな、などと思った。

不意に魔が差して、連絡を送ってしまう僕。感情って愚かだと思う。本当の自分とはなんだろう。

僕は中途半端は嫌う人間だと思っていた。しかし、どう考えても僕は中途半端だった。自分で自分を否定してしまう。

水曜日に入っている駐車場の会社の選考を、僕は受けるのだが。面談で言われた通り、駐車場そのものに特に興味もないのに受かるのだろうか。なぜ受けたのかといえば可能性0ではないところを受けられる折角の機会だからだった。

寝た。
白い腕はもうなかった。

就職活動とは体にも、心にも

あまり良いものじゃないと思った。

疲弊しているのは確かだった。

 

実際昨日の僕は別れ話をしたけれど

これがもし就職活動の影響で自分に波が出ていたとしたら

そう考えると涙が出てきそうになる。

情けない。

 

本当に好き同士だったとしたら

いつかまた元に戻るのだろうか。

 

こんなどっちつかずのようなハッキリしない性格だから

僕はダメなんだろうな。

   

 

めったに人の誕生日を祝うことなどはないけれど

それでも祝いたい時は全力で祝いたいと思う。

 

しかし、人に合った祝い方というのがあるのだろう。

よって、対人関係によっては、趣味趣向によっては全力で祝えないこともある。

例えばフランス料理で慎ましく「誕生日おめでとう、乾杯」と言われたい人に対して、パイを投げつけてシャンパンをかけるような行為はかえって悪印象であると思われた。

 

きたる7月1日はとある男の誕生日だった。

ここまで共通の目標や考え方を持って進んできた訳でもないのだが、彼の存在そのものが自分の助けになったことが沢山ある。

 

彼と敵対関係になったことは殆どなかった。

しかしそれでもお互いの能力の上昇を感じ、スキルを奪い合った。

程よく理想的な関係とはこういうことなのだろう。

もう僕も4回生である為、彼と共に過ごせる時間は

あと僅かしかないのだろうと思えた。

 

ならば、今年は彼の誕生日を祝うことが出来る最後のチャンスかもしれなかった。

誕生日プレゼントと言っても、彼と僕の間柄は特殊であるので、

なにかをプレゼント包装して送るというようなことをするつもりはない。

 

ただひとつ共通するものを通して、祝えたら良いなと思っている。


4回生発表というのが僕の団体にはある。
学園祭発表にて、4回生に発表枠が与えられるということだ。

基本的にサークルといえば、4回生は既に引退し、発表に関わることも出来ない時期である。

それが4回生発表という形で、
枠を戴けるのだから良い伝統である。

この団体を愛した僕は例年のように発表に関わろうと思っていたのだが……。

正直に言って、もはややる気が失せてしまっていた。

まさか自分が後輩の運営にここまで憤ることになるとは思ってもみなかったが、僕はもう期待することも出来ないと、心の中で思ってしまっている。

勿論後輩たちは一生懸命やっているのかもしれない。運営という責任ある立場となり、会議を行っている。しかし、僕は思ってしまう。

「それで本当に頑張っているつもりなのか」と。

僕は口うるさく言われるのは嫌いではなかった。しかし、後輩たちがそれを嫌うことは引退直前で分かっていた。

12月の僕が書いたようにリーダーはやがて邪魔者になるのだろう。それを実際に口にだしてしまうかは別の話だが。

ただ活動を見る度、様子を見る度、行事を見る度感じてしまう漏れと落胆。不信感。それだけなら今回のことには繋がらなかっただろうが、「悪目立ちはやめろ」という一文と、4回生に配慮されているとは言えない進行スケジュール。一体誰の意見を参考に組み立てられたのか。

憤る。

でも、分かっている。どうにもならないことで、誰が悪いわけでもないことを。

僕は何も伝えられなかった。彼らは何を見て何を感じたのだろう。「自分の後輩たちにも、同じように楽しんで欲しい」。そう思ってもらえるように頑張ったつもりだったのに。

頑張りました。
だからみんな僕の言うとおりにしてください。
まるで、自分がこんな風に叫んでいるようで滑稽だった。

4回生は望まれていない?
いや、違う。
4回生とはいっても女性や一部の男性はこの状況を何の違和感もなく受け入れている。

むしろ僕が、僕だけがこれらに過剰反応している。自分だけが異物のように。自分が中心になって全てが回っていたはずだったのに。時間は残酷だった。

僕は恐らく学園祭には直接的には関わらない。
しかし、もう誰が悲しむわけでもないと思えた。

所詮そんなものだったのかもしれない。

後輩たちが悪いわけではないのだ。
勿論僕も悪いわけではないのだろう。
誰も悪くない。

しかし、過剰反応しているだけなのだとしたら、僕が悪いのかもしれない。

気持ちいい朝である。
寝巻きが数日前から半ズボンと、半袖に変わった。
気持ちいい朝だが、体調が良くなかった。欲求不満ぎみだからなのか。

半ズボン男はうどんを食べた。
うどん熱が再熱している。
うどん旨い。

スーツに着替える。
面接用に鞄を取り替えた。
最も、今日が面接なのかどうかは自信がなかったが。

梅田に来た。
面接だった。
おまけに待ち時間も面接みたいだった。
面接官の方がフランクなのはいいが、話の端で書類に書き込んでいるのが、圧迫感があってつらい。

面接の部屋とはなぜ広いのか。
広いスペースに机をおき、一対一。
空間が僕を圧縮している。

2つ目の就職活動の予定をキャンセルしてしまった。スーツに着替えていた半ズボン男は悔やんだ。
必要書類も何も持ってきていなかった。

お腹が空いて苦しいスーツに着替えていた半ズボン男は、電車で大学に向かった。授業を受けるためだ。

しかし、春の単位は危うかった。もしかして僕は卒業ギリギリなのかもしれない。これはまいった。
ギリギリでいつも生きていたくはないのだ。パソコンを叩きまくり、エントリーシートを書きながら、授業のメモも取る。

授業が終わる。
今日は新入生歓迎行事だが、欠席することにした。
心から新入生を祝いたい気持ちがあるわけでもない僕が、参加していい行事ではないからだ。

この日、初めて僕は行事をサボった。

先日から指の皮がめくれ、手の震えが始まった。

手が震えるぶんにはまだいいのだけれど、

皮がめくれるのは気持ち悪いのでなんとかしたいものである。

 

そういえば、

団体のメンバーがハンドクリームを塗っている風景を思い出し、

僕は引き出しに入っているハンドクリームを塗った。

特に指に変化は見られない。

 

「ストレスか?」と尋ねられたが、ストレスなのだろうな。

 

吐き出したい愚痴が溜まりに溜まっているが、

こんな愚痴ばかり考えている自分を少し矮小だと思った。

 

明日は就職活動が立て続けにある。

長期戦だ。

長期戦は眠くなってくる。

 

頑張れるか自分。


連日就職活動。
久しぶりに続けてスーツを着る違和感もある。
膝の怪我が徐々に治り始めていた。個人的には人体のすごさを感じつつも気持ちが悪い。

会社説明会の後、筆致試験で命令表を解く。久しぶりでやり方を忘れていた。まさかの15分で終わってしまい、ゼミに間に合う。

ゼミの目的は卒業論文の作成である。進捗はよくなかった。そもそも参考文献など殆ど読まない僕だ。
そのツケがいよいよ回ってきそうである。ああ全く哲学と言うやつは分からない。

僕も、周りの人も疲れていた。
ブログをやっていることをふいに打ち上げる機会があった。
特定されて困ることはないが、仮に特定されたとしたら何だかそれを意識してしまいそうになる。

しかし、ストレス解消には脳内で生まれた考えや思いをかきだすのが良いと思われた。

日記の更新は家に帰れずとも携帯から成し遂げる。フューチャーフォンでは出来なかったことである。

日進月歩。

飴玉の唄が今日も流れていた。
誰か僕とつまらない話をしてくれはしないか。

母は昔から直情型な人だったと思う。
今でも顔を合わせば3秒で喧嘩できるだろう。

僕の父方が礼儀に厳しく固すぎるような家庭を持っていたのに対し、母方は豪快・適当・田舎育ちといった印象だった。

家族3人で居た父・母・息子という時間はあまりに少なく、記憶も殆どない。川の字で寝る、に至っては理解も出来ない。

父の記事で書いた通り、この家族は離婚することにはなるのだが、それ以前も仲が良いとは言えなかった。

母の大雑把さや、マナーの悪さに父が小言を言い、耐えかねた母が逆上して喧嘩が起きる。

家族旅行ですらそんなことが起きるのだからそれは別れたほうが懸命だろう。むしろ今の僕としてはこの二人が結婚して子をなしたというのが信じられないほどだった。

僕の中で母は、3つの時期に分類される。

①荒れ期
個人的な捉え方がそうなだけで母としては教育熱心なだけだったのかもしれない。

母はよく僕のことを「アホ」「馬鹿」だと言った。全くその通りだとは思うがなにが駄目なのかは教えてくれなかった。

家での教育は熱心といえば熱心だった。逃げ出せば怒鳴られ、叩かれた。痛いといえば針を刺され、泣き止まなければ、ベランダから宙吊りされ、風呂に沈められたり上げられたりした。

こう文字にするとかなりのバイオレンスである。この教育は実をなすことはなかった。僕は小学3年生で算数0点を取り、塾に入れられた。

②安定期
バイオレンスが収まり、体格が母を抜いた中学生時代。寝る場所を別々にすることに成功。
怒鳴られるのは相変わらずだったが、なにもされないという意味では、お互いにとって安定期。

③介護期
祖母が精神病になってからは介護期。祖母に対して呪詛のような言葉を言いながらも介護中である。
僕への関心は殆どないと思われる。

母が最も気になるところは、差別用語を吐きながら過激なことをしてきたわりに、特に嫌われても憎まれているというわけでもない点だった。

いっそマイナス感情を抱かれていれば僕からマイナス感情を抱くことも許されるのに、若干の親らしさを発揮するタイミングがある。おかげで僕は憎むこともできず、かといって諸手をあげて感謝することも出来ない。

中途半端な宙吊り。

扶養されているという現実。

「お前は所詮一人では何も出来ないおぼっちゃんだ」

母が言う。口癖のように言う。どれだけ聞いたか分からない。

家庭の中で、言葉で洗脳されているような感覚だった。家にいると気が狂いそうになることがある。認めてしまったら本当にそうなってしまう。

でも、自分が一人では何も出来ないのは事実だと思ってしまっている。

いつかはこの人を介護するのだろうか?となると、父は?

「お前の父親と私は他人だ」

この家庭にはもう僕一人しかいない。頼れるのは自分のみ。何度頼りある姉や兄の存在を妄想しただろうか。

もうすぐ社会人になる僕。
テレビに出ている男たちのように「親孝行が~……」といって、親に心優しく接するのだろうか。分からない。

親とは何だろう。