少年少女世界伝記全集の第12巻です。

良寛は数々の和歌や漢詩を書き残した人です。ガリレオは地動説を唱えた有名な学者です。
良寛は自己主張が嫌いで、自身を省みる人生を貫いたそうです。
1758年、越後の出雲崎で男の子が生まれました。その子は栄蔵途端名付けられました。
栄蔵は本を読むのが大好きでした。
18歳のときに栄蔵は坊さんになりました。そして名前を良寛と変えました。
良寛は光照寺の玄乗和尚の弟子となって、禅宗の修業を始めます。
四年後、良寛は国仙和尚の弟子となり、備中の国にある円通寺に行きました。
厳しい修業の末、良寛の位は高くなりました。
ところが、悲しいこともありました。母が他界したという知らせが届いたのです。
数年後、国仙和尚も他界しました。しかし、悲しんでばかりもいられません。
良寛は修業の合間に旅に出るようになりました。
やがて故郷に戻った良寛は五合庵に住むようになります。
良寛は托鉢のために、麓へ下りていくこともありました。
『良寛さん、字を書いてください』
子供たちに頼まれると、良寛は上機嫌でした。
五合庵に住む頃、既に良寛は偉い坊さんになる道を捨てていました。
そして幼い頃の自分を思い出して、漢詩を書いたりしたそうです。
科学革命の中心人物の一人と言われるほどの人物です。
ガリレオ=ガリレイはイタリアのピサで生まれました。それは1564年の2月のことでした。
この頃、まだ小学校や中学校は無かったので、子供たちは修道院で勉強をしていました。
ガリレオも修道院に入りましたが、15歳のときに出ていくことになりました。
父親はガリレオを坊さんにしたくなかったのです。
ガリレオはフィレンツェで数学を学ぶことになりました。
17歳になったガリレオはピサの大学に入りました。疲れたときはピサの町を散歩しました。
ある日の夕方、ガリレオは寺院の中で大発見をするのです。
『ランプが揺れている。しかし、揺れが小さくなっても、戻る時間は同じだ…』
これが有名な『振り子の等時性』です! この瞬間、ガリレオは学問に目覚めました。
ガリレオはローマに行って、名高い学者たちと話しました。
しかし、ローマで大学の教授になるという夢は叶いませんでした。
ガリレオはフィレンツェに帰ると、研究に励みました。
彼の書いた論文は好評で、ピサ大学の教授になることができました。
重い球も軽い球も、地面に落ちるスピードは同じでした。
ガリレオ=ガリレイは自身で望遠鏡を作り、宇宙を観測した人物でもあります。
彼は太陽の黒点や月の表面などの研究を発表して、人々を驚かせました。













