能登に行ってきました(2) | だから言わずにいられない。

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人も食べ物も見た目より中身のほうが遥かに大事。できる限り本物を求めることをモットーとする私が目につくことは山ほどあり、お財布の中身は減り続ける刺激的な日々です。

2024年5月9日(木)の事 その2

 

 私の従弟、北川博幸の経営する渚水産(海産卸)となぎさガーデン(レストラン)は、穴水町曽福の主要道路「国道249号線」沿いにある。地震で通行止めになった「のと里山海道」ができる前は、七尾湾に面した穴水や能登町に行くルートは、この道路だけだった。

 曽福には母の生まれた家もあるが、一人暮らしの叔母は県外の親戚に避難していて無人だ。そして穴水町の市街地にも2軒親戚があり、一軒は無人でもう一軒は疎遠。結局足を延ばすことができなかった。只々平素の無沙汰を反省するばかり。

広い敷地内には水産卸の作業所と倉庫、

レストラン、牡蠣小屋などがある

目の前の七尾湾の海水で塩を作っている

 

 北川は、ライフラインの復旧を最優先に考え、震災の翌日から、地元の有志と協力して、水道と道路の復旧のために動いた。のと里山海道が全滅状態だったため、249号線を守らなければならないと陥没箇所に砂を詰めた土嚢を埋め、国交省指示のユンボがやって来るまでの応急処置を行った。

 曽福町の水道は、川の水を引いている。上流の水源地まで登って掃除をし、壊れた水道管の修理と全戸の屋内水道管の修復を行った。

朝から晩まで「土方工事」をしながら、北川は「民意の高さを感じた」という。有志20人で作業し、発災から約3週間のスピード復旧を果たした。

 私も、電話とメールで大方の事情は知っていたつもりだったが、実際に見て、聞くまで分からないことが多いものだ。

 能登では2007年3月にもマグニチュード6.9の地震を経験している。北川の家も被災し住居を再建したのだが、その新しい家に、ヒビやズレが生じていた。目の前の堤防が5センチも隆起しているのがはっきり分かった。室内も微妙に傾いているため、安心して住める状態ではない。

 すぐに改築は難しいが、建てるとしたら平家がいいと北川は考える。

「黒光りする瓦屋根は美しいけど、その歴史は100年ぐらいで、以前は茅葺きの屋根だった。この震災を教訓としたら、地震に強い屋根や建材を使って復興していくだろう。外観は変わっても能登は能登だ。捨てないで生きることが大事や」。

 

 なぎさガーデンはいち早く営業したため、従来の常連客に加えて、国道を通る復旧工事の関係者やボランティア帰りにの人にも利用してもらえる。

 一番嬉しかったのは、発災直後に県内外から友人知人が、水と物資を車に積んで来てくれたことだという

 

 北川は、昔から能登の様々な産業が共存共栄していくことを願っている人間で、観光に頼り過ぎたり、一時的な補助金に頼るのは危険、住民の暮らしが潤うような産業の振興じゃないとだめだと考えている。

今盛んに言われている “SDGs 持続可能な社会” の実現を当たり前に目指してきた。

 「SGGs の基本は、向こう三軒両隣。物々交換ができる地域を作って行くことやね」と笑う。

 「都会の喧騒を逃れて能登に移住してひっそりと暮らしたいと言う人がいるけど、田舎の暮らしは忙しい。困った時にはお金と電話で解決できる都会と違って、何でも自分たちでしなければならない。救急車もタクシーもすぐに来ないから病人を病院まで運んで行くこともある。買い物に行けない人がいるから移動販売はやめられん。どこの家にどんな人が住んでるかも把握しておく。それが田舎の暮らしや。何もお付き合いしないでいたい人は都会に居てくれ」。

 

 今はまだ、漁に出られない漁港が多く、魚の仕入れが制限されている。稼働している魚市場で朝仕入れた魚を午前中に発送する毎日だ。

 「能登の魚を待っているお客さんに送らなならんし、魚獲ってくる漁師のためにも頑張らなならん」。

 仕事場を失って町外で働いている漁師たちも、隆起した港から船が出せるようになったら戻ってくるだろう。その日が

早く来ることを祈るばかりだ。

お刺身定食をいただいた

私、北川、私の夫

写真が少ないので賑やかしの一枚