能登に行ってきました(1) | だから言わずにいられない。

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人も食べ物も見た目より中身のほうが遥かに大事。できる限り本物を求めることをモットーとする私が目につくことは山ほどあり、お財布の中身は減り続ける刺激的な日々です。

2024年5月9日(木)のこと その1

 

 遅くなってしまったが、先週金沢に帰省して、1日だけ生まれ故郷の七尾、そして母が生まれた能登穴水町の親戚に行ったことを記録しておこうと思う。

 

 金沢でも能登でも、一日中晴れた日など滅多にないのに、5月9日だけは、雨が上がって、半袖で過ごせる暖かい一日だった。

 金沢から七尾に向かうには、民家が建ち並ぶ在来の道路を選びたかったが、金沢についてから膝を痛めてしまった私が運転できなくなり、スピードを出したいオットに忖度して「のと里山海道」を走った。

 そのため、七尾までの道の両側には民家はほとんどなく、震災の記憶を残しているものと言えば、壊れた道路の補修工事によるガタガタ。車の振動が頻繁にあって、昭和30、40年代の能登の道路事情を思い出した。

 七尾に入って驚いたのは、一見何も問題がないように見えても、よく見ると傾いでいる家、部分的に壊れている家が多いことだった。

 最も目立っていたのは、瓦が落ちてブルーシートで補修してある屋根。車から見て分かるだけでも多いのだから、きっと家の中での被害が全くなかった家などないはずだと思う。

 もし、自分の家が大きく壊れていたら、写真を載せられたくないだろう、と思うとなかなか撮影できなかった。一本杉通りを走ると、倒壊した高澤蝋燭店の建物は片付けられてほぼ更地になっていた。

 私が18歳まで暮らした湊町だけは、ゆっくり見たいと思い、車を降りて歩いた。

 海運業をしていた祖父を手伝っていた父と母の家、つまり私の実家は海岸通りにあったが、40年前に金沢に移転して「スギヨ」の工場の一部になっている。実家の隣にあった海上保安庁は、後に公民館と図書館になり、現在はコミュニティセンターになっていた。

 コミュニティセンターの職員に聞いたところ、水道は予定通り3月中に復旧し、トイレも使えるようになっているとのこと。しかし、穴水に住む従弟の話によると、上水が使えても下水の復旧が遅い地域もあったそうだ。下水が壊れたままだとトイレは使えない。

 

 私の幼い頃は、低い堤防から海を覗き込んで、網で魚を獲ることができたし、能登島もよく見えたが、今は堤防が高くなっているため、見晴らしが悪い。すべり台がわりにして遊んだ砂利山も、丸太が積んであった製材所もなくなっていた。

 人通りがほとんど無い。子どもの頃に大きいと思っていた町は小さく、奉燈祭り(キリコ祭り)で奉燈が何台も集まる広場が思ったより狭かった。

 よろずやのような青果店も精肉店も洋品店も無くなっていたが、同級生の家の燃料店も、釣具店も、和菓子店も健在で、父がお世話になっていた理髪店も営業していたのは嬉しかった。

 

 いよいよ、七尾から穴水の従弟の家に向かう。途中に和倉温泉があるが、運転手に遠慮して温泉街には入らずに行く。田鶴浜あたりから家の傾きや看板のずれ、ブルーシートに覆われた家が目に飛び込んでくる。

 

 国道249号線のいたる所に補修の跡があり、車がガタガタ振動するが、七尾湾の海は何もなかったかのように穏やかで美しく、青い水面が輝いていた。

 山の緑には黄緑色が混ざっていて、そこに鮮やかな山藤の色が調和している。この時期の能登にしか見られない天然のハーモニーだ。

 

(その2に続く)