Mr.Children Thanksgiving25@ヤンマースタジアム長居8/12ライブレポ | novel2017のブログ
 
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日本のロックは数多のバンドを生み出した。いや、逆かもしれない。過去70年近くに渡って数々の天才達がああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返しロックを作り上げてきた。
はじめて日本語ロックに挑戦した(と言われる)はっぴぃえんど。ロックの形を作り上げたキャロルやRCサクセション。新しいバンドの形を示したYMO、都会的で洗練された音楽を作った山下達郎、語ればキリのないほどたくさんのアーティストがここまで日本のロックを築き上げてきた。
 
Mr.Childrenとはどんな存在なのだろう。90年代中頃に突如現れた、天才桜井和寿が率いるロックバンドは瞬く間に日本のロックのみならず、音楽界において頂点に辿り着いた。それはただのポップスをかき鳴らす商業音楽として消費される消耗品ではない。一音一音、一語一句に意味を深く見出し我々日本人の心を揺さぶってきた。だからこそ、カリスマとして今なおあがめられている。
 
ただ私自身ミスチルと深く人生をシンクロさせてこなかった。「しるし」にハマって聴きまくって嫌いになったりとか、ふと人生の分岐点で「終わりなき旅」に心支えられたリはしたが、いままでライブに足を運んだこともアルバムを買ったこともない。ただ、2013年にサマソニで人生初のミスチルをみた。その時のパフォーマンスたるやえげつないことこの上ないと鮮烈に記憶している。本来サマソニは海外アーティストが多く出演するため見に来る人も洋楽好きが多い。事実あの日も、確かに一定のミスチルが好きそうなファンは見受けられたが空気はアウェーだった。ミスチルがなんぼのもんじゃい、みたいな。でも始まってみれば圧巻以外のなにものでもなかった。いつのまにか全員を巻き込み大合唱。そのあまりの一体感に心を撃ち抜かれた。なんてすごいバンドだと。これが日本のトップに君臨するバンドかと。いつか単独に行ってみたいなあと思うようになった。
 
 
思うようになっただけで結局行く機会に中々恵まれなかった。RADWIMPSとZEPP TOKYOで対バンすると聞いたときは申し込みもしたが外れた。やはり手軽に行けるバンドではないのだと半ばあきらめていた。しかし今回運よく参加することができた。友人にチケットを手配してもらったのだ。今回はミスチル25周年記念ライブのツアー中。私は8月12日長居スタジアムで行われたライブに参加することになった。そのレポを書いていこうと思う。セトリも書きます。
 
 
家を出るのが遅れて会場に到着したのは開演10分前。チケットを提示して中に入るともうすでに客席はいっぱいだった。ライブは定期的に行くがスタジアムライブは人生初。その数の多さに圧倒された。何も言えない、表現のできない人の数。見渡す限り人ばかり。デビューして25年、いまだにこの数のお客さんを2日間も集めてなおチケットは即完で入手困難だというのだからその末恐ろしさがわかる。ミスチルは8割が桜井和寿で成り立っている(残り2割は小林武史だ)。こんなこというとファンからは怒られそうだが、事実だと思う。むしろライトなファンになればなるほど桜井しかみていない。もちろん、メンバーの功績も無視はできないが。そんな桜井和寿というたった一人の人間の放つ言葉を聴くためだけに何十万人、何百万人が一万円を払って見に来ている事実にただただ唖然とした。


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会場の中に入るや否やSEが流れる。メインステージの大きなスクリーンに映し出される映像。その映像もコラージュだったり幾何学の図形を駆使したCGだったりと非常にセンスがいい。テレビで見るミスチルのイメージとはまた違ったセンスが見られる。そして過去の映像が断片的に流れる。初期のPVやライブ映像、アー写。その映像とともにステージ上ではサックスやバイオリンなどの生演奏が重なる。チャランポランタンの小春の姿がスクリーンに映し出されると大きな歓声が沸いた。チャランポはいつのまにかミスチルファンの中で有名人になったらしい。本業がんばれよ。
そして数分のオープニングが終わるとドラムのキックが鳴り響く。ゆっくりとスクリーンにドラムの鈴木の姿が映し出される。そしてギターが入ると映像は田原、ベースになると中川が登場。もう会場はあの人の登場を待ちきれない様子。
 

満を持して桜井がでかでかとスクリーンに映ると会場のボルテージは最高潮。地鳴りにも近い歓声が響く。一曲目は「CENTER OF UNIVERSE」。桜井節が冒頭から炸裂するファン人気の高い曲(らしい)。しかし曲が始まっても観客のどよめきは止まらない。こんなことは今まで経験したことがなかった。普通なら歌が始まると食い入るように聴くものだが、それを遥かに凌駕する存在感はおもわず口から洩れる「すげえ」「やべえ」「きたあああ」が塊となってドワアアと沸き上がる。私の位置からでは肉眼でかれの顔まで見ることはできなかったが、まるで目の前で歌ってくれているような力強い声、そして前の客という障害を全く感じさせない、存在感の大きさに驚嘆した。
一曲目が終わるとすぐさま二曲目「シーソーゲーム~勇敢な恋の歌~」に入る。この曲はあまり普段のライブではやらないと聞いたことがあるが、さすが25周年ライブ、出し惜しみは一切ない。スクリーンに映る当時のPVが今のメンバーとシンクロする。なにより合唱が気持ちよい。これだけの数の人がみんな同じセリフを一言一句間違えないで歌い上げる景色にどうしようもないカタルシスを感じてしまう。次の「名もなき詩」でも桜井は全力で歌い上げる。
 
あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしてる。知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいているなら僕だってそうなんだ
この一節はあまりに有名であるが、それ以上に時代を象徴した歌詞だなとつくづく思う。尾崎豊のような大人への反抗が全てだった80年代が過ぎ、バブルがはじけ不況に陥り、自分とはなにかという"自分探し"が求められるようになった90年代中ごろに桜井はこの歌詞を投下した。混沌とした95年。サリン事件や阪神淡路大震災があり、世紀末へと確実に近づく中で自分を偽りだれかにこびへつらい不安定な世の中を生きなければならなかった96年に「自分らしさの檻の中でもがいてるなら僕だってそうだ」と歌った。それは決して「がんばれ」や「負けるな」ではなく、ただ何の解決にもならない他者の同意だけに支えられた。むしろ。それでいいのだ、とでもいいたげな桜井の言葉は当時の鬱屈とした若者の心を一瞬でとらえた。その敏感なアンテナこそ桜井の最も強みとするとこなのだろう。そして悔しいのが20年たった今でもなお若者にこの言葉でやさしく包み込んでいることだ。もう21世紀が始まってずいぶん経つのにいまだに桜井の20年前の言葉がかつてとおなじような効力を放っていることに、現に今自分がこの言葉に言葉を詰まらせている事実に桜井の存在の大きさに気付かざるを得ない。
 
成り行きまかせの恋におち
時には誰かを傷つけたとしても
その度心いためる様な時代じゃない
 
 
「25周年の感謝のきもちをこめてこの曲をみんなに贈ります」というMCで始まった「GIFT」、「sign」でしっとりと歌ったあと、「去年、自分たちがやり残していることは何だろうと考えたとき、僕らあまりに早く売れちゃったから(笑)、ホールツアーやったことないなって話になって。だから去年は8人でホールを回ってました。その8人で『ヒカリノアトリエ』やります」と語りステージ前方の花道で披露。ミスチルはロックバンドと形容するとどこかしらから批判が来るようなバンドである。それはきっと小林武史という名(迷)プロデューサーの介入のおかげで、ストリングスがどの曲にもふんだんに盛り込まれているからだろう。そして音楽性とターゲット層、メンバーの技量(?)もあり、楽器隊はかなり音圧は低めで凝ったアレンジもしない。とても軽い音楽になっている。だが、この8人体制で、サックスやアコーディオンはあっても大層なストリングスや同期なしで披露した時に気付いたのはミスチルというバンドの堅さだった。堅実なプレーヤーでありながら桜井の間を完全に読み切った演奏。よく、「あんな演奏誰でもできる、メンバー変わってもいける」なんて揶揄をされたりするがそれは違うなと感じた。凡庸な表現だが、彼らの阿吽の呼吸は彼らにしか出せない味となっている。25年という月日は技量だけでなく、バンドとしての完成度をより高く、より精密でいつでもどこでもなんどでも完璧なライブが寸分違わずできるチームとしての機能が他のバンドに比べて圧倒的に長けていることがわかった。
「デビュー曲やります」
と言って始まった「君がいた夏」。初期ミスチルは割とシンプルな恋愛曲を歌っている。どのバンドにとってもデビュー曲は思い入れがあるが、それはファンも同じだろう。斜め前のお母さんはおもわず興奮してバタバタしていた。うっとおしい(笑)。でもわかる、わかるよ。
そのまま「innocent world」で再び会場に大合唱が起こると、「Tomorrow never knows」でしっかり聴かせる。
 
 
 
25年という月日は彼らに一体どう映るのだろうか。桜井は本来はひねくれた人間なのだと勝手に推察している。しかしミスチルファンにそのような人たちはあまり多くないように思う。「ミスチルが好きだ」という男女を今まで何人も見てきたし現に今会場の人たちを見ているが、そんなスれた人がたくさんいるように思えない。そこも彼の凄さなのかなと。スれた人間にはスれた人間しか集まらないものなのに、それが一般層にまで平気で届く。恋愛ドラマをみて涙を流し、失恋したら悲しい歌を聴き、ひどい話に悲しみ、幸せな話に喜ぶ。誰かの逆を地で行く私のような人はむしろ一度はミスチルを敬遠するだろう。歯の浮くようなこと歌ってんじゃねえ、と。でも彼の歌はその程度ではなかった。一度は鼻で笑った歌詞が歳をとるごとに深みを増し意味を理解し打ちひしがれていく。彼が決して能天気でハッピーで純粋無垢な人間ではないことに気付くと、思わず聞き入ってしまう。
きっと彼らにも葛藤があったのではないかと思う。自分たちが歌ったことがあまりに評価されたり、ポップスとして消費されつつあることにジレンマを抱え嫌になったこともあるのではないか。ただの予想だが。しかし桜井はこう語った。
「10周年になったとき、それは事務所とかレーベルがお金儲けのために勝手に盛り上がてってるだけだろ、自分たちは一日一日を必死に過ごすだけだ、と思ってました。」
聖人のような桜井だが、根はこんなことを考えてしまう人なのだ。でもだからこそいい。だからこそ言葉に重みが生まれる。闇を、ひねくれを経験しているからこそのやさしいポジティブな歌には説得力が増す。だた生まれてからずっとありのままをあるがまま受け入れてきた人にはない深みがある。だから桜井の言葉に涙する。。のだ私は。
 
 
マイナス思考で悩みまくった結果
この命さえも無意味だと思う日があるけど
"考え過ぎね"って君が笑うと
もう10代の様な無邪気さがふっと戻んだ
 
で始まる「simple」を披露した時、合点がいった。桜井は今その境地なのかもしれない。
 
 
「この曲はあまり僕らを知らない人たちからすると初めて聞く曲かもしれないけれど、僕たちにとっては大事な曲です」と言うと歌い始めたのは「1999年、夏、沖縄」。この曲がここに置かれたことはとても恣意的で示唆的である。彼らの想いはこの曲を中心に構成されているといっても過言ではない。
 
戦後の日本を支えた物の正体が
何となく透けて見えるこの頃は
平和とは自由とは何か
国家とは家族とは何か
柄にもなく考えたりもしています

その後に続く「足音~Be Strong~」は小林武史が抜けて初めての楽曲。彼らとコバタケの間に何があったかは詳しく知らないが、20年やってきた今までとは全く違う形での楽曲制作だったがゆえに大きな意思をそこに感じた。
印象的なギターリフから始まる「ニシエヒガシエ」。活動休止中に発表された攻撃的なナンバー。当時はファンの中で戸惑いもあったらしい。このエピソードがいかにミスチルファンがどういった層にウケていて桜井本人の人間性と大きく乖離しているかが分かる。ミスチルファンに好きなギターの音を選ばせたら上位に来るであろうこの曲、ファン以外にとっても非常に目を引く。というのもそもそもミスチルのギターはあまりに影が薄い。なにかといえばコバタケのピアノとストリングスが前へ前へ出てくるバンド性のため、ギターはあくまでコード弾きに徹するか、ストリングスになじむような自然な音作りを目指している。しかしこの曲はイントロからAめろBメロに入ってもギターの主張が強い。歌詞に連動して非常に珍しくソリッドな音作りになっている。田原はボトルネック奏法でその歪な世界観を演出する。ギターで世界観をここまで作る楽曲は私はあまり他のミスチルの作品の中で知らない。
 
また 君の中の常識が揺らいでる
知らなきゃ良かったって 思う事ばっかり
そして いつしか慣れるんだ
当り前のものとして 受け入れるんだ
 
なんだかこの歌はミスチル自身のことを歌っているような気がしてならない。だからMVでもミスチル以外に歌わせ適当なあてふりをさせたのではないか。自分たちはこれだけくだらないことを君たちに見せているんだと言わんばかりの暴力的な言葉。2番サビが終わると、変拍子になり、6/8で進行する。ここが一番好きだ。これがあることでグンと桜井の言葉が重くなり世界観ができあがる。日が完全に落ち暗くなったため照明が活きる。赤く照らされたステージと毒々しいレーザーはまさにこの曲にふさわしい演出だ。「ニシエヒガシエ」はライブ映えする曲だし、ああロックだと感じさせてくれる。バンドマンとしてシンプルに憧れた。
 
その後は新曲の「himawari」や「fanfare」などを披露、「エソラ」で本編を締めくくった。
 
 

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暗転すると客席からは各々携帯の明かりが灯される。アンコールの手拍子が鳴りやまない中、ふたたび「overture」にのせて登場。そのままの流れで「蘇生」を披露した。
そして最後、これからもまだまだ続くバンド活動を見据えてラスト「終わりなき旅」を演奏。
さすがに感無量過ぎて歌うこともできなかった。じっと彼の歌を聴き、黙ってかみしめるように言葉を飲み込んだ。復帰第一作となったこの曲は力強いギターからはじまる。ドラム鈴木の一発一発を渾身の力で叩くスタイルはこの曲で大きく輝く。
いいことばかりではないさ でも次の扉をノックしたい、から
いいことばかりではないさ でも次の扉をノックしよう、へと
嫌な事ばかりではないさ さあ次の扉をノックしよう、への変化はこの曲の醍醐味でもある。決してポジティブになりきれていない「心配ないぜ 時は無情なほどに すべて洗い流してくれる」のような皮肉も交えてでも前を向いていく力を与えてくれる、まさに神曲であるこの曲は今日のすべてを詰め込んだ最高の一曲だった。桜井のシャウトも観客の合唱も。すべてが完璧で素敵で美しかった。こんなに素晴らしい音楽があって素晴らしい人たちが同じ意思を持ち涙を流しあうのに、ひとつも世界がよくならないことが不思議でたまらなかった。これでも世界は平和にならないのかと少しだけ寂しくも感じた。桜井ほどのカリスマをもってしても、びくともしない世界を頭がよぎるとため息が漏れた。桜井が最後の歌詞を全力で歌い上げると自然と声が漏れた。うおおともぬおおとも表現しがたい、心の底からもれる唸り。どこまでも桜井のシャウトが響いていった。雄たけびは長居スタジアムを越えて天にまで登る勢いで弾け飛んで行った。
ファンの人の評価は知らないが、「終わりなき旅」はアウトロこそ至高だと思っている。桜井の熱を持ったギタープレイ。かきむしるようにひたむきに鳴らす隣で中川と田原は忠実にこなしサポートする。ミスチルというバンドのすべてがこのアウトロに表されていると思う。1分もあるこのアウトロが短くて惜しく感じるほどこのアウトロがたまらなくすきだ。桜井のギター。美しいストリングスが絡み合って壮大さと情熱が同時にぶつかりながらこちらに向かってくる。いつもは言葉で全ての感情を曝け出すミスチルがここでは楽器だけで熱を上げる。楽器だけで力強さも葛藤も迷いも表す。このアウトロを生で聴けたことを心から誇らしく思う。最後の最後まで本当に最高だった。
 
 
 
 
 
私はミスチルのファンではない。シングル曲しか知らないしシングル曲さえも全て知らない。だから25周年を迎えることの年月に思いを重ねたりファンならではの感情というのはない。だけれどファンじゃないからこその想いはある。運よく私は音楽が大好きで、ロックからエレクトロ、アイドルやJPOPまであらゆる音楽を愛し、こうやって普段から音楽ブログを更新している。だからたくさんのロックバンドを知っている。たくさんの成功例もみたしその分たくさんの失敗も見ている。「あ、このバンドは売れたい気持ちが強すぎて間違った方向へ行っているな」とか「ああ、これはこじらせてるなあ。売れることへの、消費されることへの嫌悪感が邪魔して売れることはないだろうな」など、様々な障壁が多くのバンドを殺してきた。だからこそ、どうしてここまで世代を超えて愛されるのか。いや、世代を縦断するならまだわかる。世代を横断するのだ、ミスチルは。前を観れば50を過ぎたお父さん、横には20代の女性。後ろには10代の女の子。斜め前にはお母さんとその子供。私のような20代の若者。チノパンを履いた性格のよさそうな男の子。ちょっとやんちゃそうなカップル。全然出自も環境も違うのに。全然それぞれの描くミスチル像が違うのに。恋愛の歌が好きな人、暗い曲が好きな人、背中を押してくれる曲が好きな人。どれも全く求めている者が違うのにすべてひっくるめてミスチルは愛されてしまう。そしてその横断された世代をひとつにまとめてしまう。その末恐ろしさをひしひしと感じた。「これが日本のトップクラスのバンドの実力か」とまざまざと見せつけられた気がした。先週はシガーロスを観て「日本はこのレベルに早く追いつかないと」と言ったが、ベクトルは違えど十分その域に達していると思い直す。ミスチルは世界にはきっと通用しないが日本人の心をつかむ最高の才能とセンスと実力を備えた天才なんだと今はっきりと言える。そのスケールのデカさにただ圧倒された。
 
 
 
最後に気になった点をいくつか。こんなに褒めておいて最後苦言を呈して終わるのはちょっといかがなものかとは思うが、どうしても言いたいことがある。
まずは合唱問題。合唱自体は問題ないし、私は大賛成だが、アコースティック一本で歌うようなバラードですら熱唱するのはやめてほしい。やはり場をわきまえてほしいもの。これだけファンが多くて先述したように世代を縦横断するようなバンドのライブは色んな価値観の人がいてしかるべきだし仕方のない部分もあるのだが、やはり"あなたのカラオケを聴きに来たわけじゃない"という意見ももっともだと感じた。フラれたら歌う。フラれなくてもテンション上がって歌うのもよし。でもアカペラやバラードなどは違う。
もうひとつは手拍子。「innocent world」でおなじみのBメロでのパンパパンフーはアイドルやJPOPの現場で多い手拍子の一つだが、その手拍子が続く「Tomorrow never knows」の1番でも引き続きパンパパンフーが使用されていて違和感だった。やはり手拍子はドラムのバスドラムに合わせるのが基本。おい、フォーリミのファンおまえらもやぞ。「Terminal」で変な手拍子すんじゃねえ。エイトビートならそれなりの、四つ打ちならそれに応じた手拍子をお願いしたい。ファンだと自称するなら余計にそこは敏感であってほしい。
あとは途中でドラムの鈴木の独壇場があった時。スクリーンになぞの通販番組が流れ英語で繁殖期の話をするなど意味不明な映像が流れた後、桜井抜きのミスチルメンバーが登場。アイパーのカツラをかぶった鈴木が「思春期の夏~君との恋が今も牧場に~」を披露。50手前のおじさんが張り切ってふざけている。これはおそらく貴重なライブに違いないのだが、この間にトイレに行く人の多さよ。そりゃ高齢の方もいるのだから彼ら自身トイレタイムのつもりでやっているのかもしれない。やむを得ずトイレに行く人がいるのもわかる。別にトイレに行くなとは言わない。でも、あたかも当然かのように平気な顔してぞろぞろだらだらとトイレに向かう姿を見るのは興ざめだった。3時間のライブは確かに長い。私自身そんな長いライブを単独で観たことがない。でもトイレはライブ前に必ず行くし、したくなっても全力で我慢する。それが好きなアーティストへの礼儀だ。特にこの曲はファンからすればきっと珍しいのにそれを平気で見過ごすのはちょっと私の今までのライブ人生の価値観にはなかったので驚いた。こればかりはJPOPファンと音楽ファンの姿勢の違いなのかなと悲しくなった。だめじゃないけどね。野球の5回裏じゃあるまいし。本編進行中だぜ?
 
 
 
 
とはいえやはり最高だったのは間違いない。その濃いメッセージ性で国民のアンセムとなった終わりなき旅の大合唱はまさしくイギリスにおけるoasisの「Don't look back in anger」である。そもそもoasisとミスチルは似ている。出てきた時代もほぼ同じだ。疲弊した社会にそっと寄り添うような、そしていままでの日本音楽にはなかった捻くれた歌詞は新しい風として受け入れられたミスチル。ニルヴァーナなどのグランジが流行しロックンロールは死んだと思われたときにカウンターパンチとして「Rock'n roll star」を引っ提げて登場したoasis。どちらも社会のアンチテーゼとして颯爽と現れシーンをかっさらった。blurなどと競争意識を煽られブリットポップとして消費されつつあることへの反抗心をむき出しにするリアムとノエルは、自身のスキャンダルやいわれもない噂に翻弄され摩耗し活動休止をした桜井とダブる。そしてなにより楽器隊の地味さだ笑(ただし最も大きな相違点はメンバー同士の仲の良さだろう。桜井は決して鈴木を下手くそだ!モタつきやがってファッキン野郎だ!と罵りクビにしたりしない笑)。まあフロントマンに才能があり過ぎると楽器隊はヘタに動くと逆によくないのでどちらも理にかなったスタイルだとは思うが。
そんな元oasisのリアムギャラガーを一週間後のサマソニで観られるのだから興奮が止まらない。ミスチルもみてリアムも見て。人生は素晴らしい。
 
 
 
 
本当に最高だった。邦楽史上最高のステージだったことをここに記す。