一億総ナオトインティライミ社会~高橋優から考える~ | novel2017のブログ
こんな言葉を最近編み出した。

一億総ナオトインティライミ社会

それは、高橋優のある楽曲を聴いて思いついた。。。。



「福笑い」で大きく注目を浴びた彼の特徴はなんといっても「ストレートな歌詞」にあるとおもう。時には残酷な表現で、時には最大限の幸福を、奇を衒った言葉ではなく、わかりやすくそして陳腐にならず、まやかしのないまっすぐな言葉が大きな共感を得た。彼の人柄そのもののおかげだとおもう。私は高橋優はよく知らない。それこそ「福笑い」しかしらない。だから今回、シングル曲をざっくり洗ってみた。そして、きっとこういうアーティストはアルバム曲やカップリング曲でよりディープな深い歌を歌っているはずだと、ファン一押しの楽曲もいくつか聴いてみた。
高橋優のコンセプトはデビュー曲で明らかだ。


麗しき国に生まれすこやかに育んで
この上ないほどの幸せを僕は知ってて
それでいてもなお湧いてくる欲望の数々
「満たされない」「物足りない」何かに腹立つ


から始まるこの歌は、圧倒的に汚い生を描き、苦悩や葛藤を隠すことなく、言いにくい本音(いじめなきゃいじめられる)まではっきりと語っている。それでもサビでは「まだ笑うことができるかい?「愛して支えあっていけるなら きっとまだ間に合うよ」と、生を肯定している。このスタンスは私も大きく賛同する。というかデビュー曲でこれってすげえなおい。初めてちゃんと聞いたけどおっそろしい新人だよ。もっとバカみたいな言葉乱用してるのかと思いきや、、ねえ笑






「同じ空の下」ではプロモーションビデオから攻めている。あまりこういうメジャーなアーティストが通りたがらない「リアル」を淡々と映している。これも高橋優のコンセプトがあるからこその演出であり、それがいかにファンに支持されているかがわかる。

他にも「スペアキー」「ほんとにきもち」なども聴いた。

しかし問題はここから

2015年にリリースされた
「明日はきっといい日になる」という楽曲が今回の目玉。高橋優ファンはこの曲をいったいどうとらえているのだろうか




PVも徹底してクリーン。一見リアルな日常を描いているようにも見えるが、電車の中で資料ぶちまけて全員見て見ぬふりとか、教室で露骨に虐められているのに全員見て見ぬふりとか、そのあとバカリズム演じる先生が屋上で泣く女生徒を励ましてあげるとか、帰り道にその悲しい出来事を経験した二人が路上アーティストに感動するとか、どこまでも「作り物」感しかない。全然リアルでないのだ。いままでの高橋優のリアルさがない。そもそも芸人という有名人を起用したことで「演出」感がすごくあるし、なんなら吉本とつるんでいる時点(バカリズムは違うが)で「あ、この曲売れないとダメなんだな」と察してしまうくらい露骨だ。

それなりにポップミュージックを聴いているとわかるのが「この曲売ろうとしてるな」とか「勝負掛けてるな」ということ。それは音楽そのものもそうだし、こうしたPVにも顕著に表れるのだ。
しかし、皮肉なことか、この曲がちゃんと結果を残した。オリコンランキングこそ、それほど目立った結果は残していないものの、youtube視聴回数をみてみると、代表曲の「福笑い」が146万5378回(2015年アップ作)、デビュー曲の「素晴らしき日常」が171万8809回(1013年アップ作)に対し、「明日はきっといい日になる」は、462万5133回と大きく上回っている(いずれも2016年7月1日時点)。

この再生回数とオリコンランキングからして言えることは

高橋優のファン以外がたくさんこの曲を聴いている

ということ。

ダイハツのCMソングとして起用されたり、女性歌手のRihwaにカバーされたりと、そのあたりが影響しているのかと思われるが、これをファンはどう受け止めるのか。おそらく「この曲も好きだけど、これが高橋優の代表曲を思われるのは嫌!!」と言う人が多いんじゃないか。想像だけれど。でももしこの声が大きくなかったのだとしたら相当ずれたファンというか、まったく魅力を分からず聴いているのだと思う。
さっきも言ったように、この曲はPVからすでに「うすっぺらい」。作り物しか出てこない、今までの高橋優とは全く違うコンセプトになっている。
「そんなことない!!!優くんはいつも姿勢はぶれないよ!!このPVだって優くんが撮ったものだよ!」と反論食らいそうだが、どうせそんなやつは顔ファンとか、サビだけの上っ面良い言葉だけすくいとって勝手に共感してるだけのババアなので無視する。いちいち説明するのもめんどくさい。

では歌詞はどうなのか。

明日はきっといい日になる いい日になる いい日になるでしょう
くたびれた顔で 電車の中揺られている人を見た
勇気ふり絞って 席を譲ってみた
「大丈夫です」と 怪訝そうに断られたそのあと
きまり悪そうに 一人分空いたまんまのシート
まあいっかと割り切らなければ とっておきの笑い話にしよう

内容はそれほど作り物感がない。身近でありそうな題材を使っている。「まあいっかと割り切らなければ」のところが彼らしい言い回しだ。
しかし、後半は一転して延々と「いい日になる」を連呼する。もちろん、肯定的にとらえれば、どんなわるいことも前向きに考え、君と笑いあうだけでいい日になれるというメッセージソングなのだが、いかんせん内容が薄い。どういい日になるのか、もっと掘り下げてもよかったのではないか。

今、掘り下げてもよかったと書いたが、正しくは違う。「掘り下げられなかった」だ。この曲は明らかに幅広い層にウケるために作っている。そのためには、高橋優の毒牙はできるだけ抑えなければならない。と考えたのだ。怒るな。しかたがない。こういう方針にしたのは彼じゃない。レーベルだ。音楽の本質をなにもしらない、ただビジネスの知識しかないおっさんらがそうきめたのだ。そして悲しいかな、そのマーケティングは正しいのだ。つまり、レーベルのおっさんらはバカだが、そのおっさんらと同等にリスナーも馬鹿なんだ。
高橋優のダークな部分も好きだというファンは、わりときちんと物事の取捨選択ができるひとだとおもう。自分の意思があり、好き嫌いがある。でも世の中そんなひとばかりではない。365日24時間ひたすら恋愛のことばかり頭にあり、ポジティブで耳触りのよいポエムばかり欲している人もいる。何の信念もなく、人に勧められたものはすべて受け入れ、どんな流行もとりあえずのってしまう人だ。これ以上書くと個人的な感情と偏見で差別的な悪口を書いてしまうからやめるが。そういう人っているんだよ。結構。今回の「明日は~」はまさにその流動層を狙った作品だ。だからなるべく高橋優の個人的な意見や価値観はいれてはならない。普遍的でうすっぺらくて、誰にでも思い当たるような歌詞しかだめなんだ。
だから、よく西野カナがうすっぺらいとか、馬鹿にでもわかるとか言われるけど、あれほど具体的で思い当たる人を限定しているのに売れているって、実はすごいってことも理解してもらえればと思う。本当にうすっぺらくてゴミみたいな商業音楽っていうのはいつも抽象的だ。だれにとって「いい日」なのか、どんな「いい日」なのか、それは語られてはならない。聞き手自身が勝手にあてはめるものなのだ。





と、ここまで長く書いてきた。じゃあタイトルの話をしよう
「一億総ナオトインティライミ社会」
そう、高橋優の代表曲は結局「素晴らしい日常」のような露骨でエグい楽曲ではなく、「明日はいい日になる」なのだ。彼のスタンスは崩壊した。なんの意味もなかった。この日本と言う社会は、「ペラペラなポジティブソング」のみ欲しているのだ。そう、まさにナオトインティライミだ。
ナオトインティライミとは、説明不要、引きこもりを自称し、なんならそれをダシにし、謎の行動力で海外へいき、ビッグアーティストのライブに強引に参加しドン引きさせるという強心臓の持ち主。彼はまさにポジティブ王だろう。
本来はこれ、ファンキーモンキーベイビーズにしようと思ったんだけれど、あまりにネガティブな報道があったもんだからやめた。

ポップミュージックを熱心に聴いていると、やはり、こうした「ナオトインティライミ化」は止まらない。今に始まったことでもないが、こうどいつもこいつもうすっぺらい歌を歌っているとなんだか情けなくなり笑えてくる。初めから狙ってバカやってるソナポケなどは今回の例に当てはまらない。miwaなんかもそうだろう。シンガーソングライターって、もともと路上でやってたり、信念だけで活動してたりするから、結構初期はその名残でゴリゴリな路線だったりするけど、映画の主題歌とかやりだしたらもう抜けられない無間地獄に突入したなと察する。
レミオロメンの代表曲が「3月9日」なのもそうだ。しかし例外的なこととして、この曲そのもののクオリティが高く、抽象的な歌詞だけどうまく含みを持たせているところが挙げられる。ウルフルズの代表曲が「明日があるさ」もなるべきテーマだった。しかし彼ら自身がその楽曲を多く披露せず、露出を抑えたため一過性になった(原曲の明日があるさとウルフルズのとは全くテーマが違い、伝わったメッセージも異なっているとこには留意してほしい。ウルフルズの明日があるさはまさに明日はきっといい日になると同じ構成で、Aメロで具体的な描写を、サビで抽象的な言葉をならべている。そして原曲と違い、ウルフルズのは、とてもざっくりした意味でとらえられている)。中島みゆきも「ファイト」が人気だがそのほとんどがAメロの強烈な前提を知らない。ただやみくもに応援されているだけの楽曲になっている。
HYが「ただあなたに会いたい」を連呼しているだけの曲で市民権を得たり、スピッツの「愛しているの響きだけで強くなれる気がしたよ」なども顕著な例だろう。
関係ないけど、最近リリースされた西内まりやの楽曲は盛大に笑った。モデルとして成功して、歌手でもデビューした彼女は、最初の方こそロックチューンだとか、ピアノバラードとか、結構彼女の希望通りの本格派として活動していたのに、最新曲ではへそ出しのミニスカで「チュッチュ」とサビで連呼しながらキモイきゃりーのパクリダンサーを従え、ダサいダンスを踊り、投げキッスを繰り返すという罰ゲームみたいな仕打ちを受けていた。しかもイオンで営業しているらしい。が、残念ながら「ほれいわんこっちゃない」としか言いようがない。音楽業界ほどやりたいことと現実が乖離する業界はないのに。ほんと。そうなるにきまってんじゃん。



哀れだよ、哀れすぎる。西内まりや。いまごろ楽屋とかで泣いているのかな。



話を戻す。
何度も言うけど、この「ナオトインティライミ社会」は、誰が作り出したわけでもない。レーベルの汚いおっさんも一因はあるかもしれないが、卵が先か鶏が先か。リスナーの問題なのか業界の問題なのか、それははっきりしない。そしておそらくもうこれは手の付けようがない。10代とはえてしてそういうものだ。耳障りのいいポエムが好きなもんだ。だから許す。そのうち本を読んだり社会経験をしたり、辛いこと経験して人は成長するから。普通、「ナオトインティライミ社会」は大人になれば卒業できる、いわばネバーランドのようなものだ。しかし、そのネバーランドからいつまでもでてこない大人がいる。むしろ、その大人が多すぎるからこの問題が勃発しているのだ。20過ぎて銀行員になったけれど、いつまでたっても成長せず、明けても暮れても「誰がカッコいい」だの「合コン」やら「結婚」やら、「好き」とか「嫌い」とか、小さな自分の感情の中でしかしゃべらない大人がいる。本も新聞も読まないのでなんの主義主張もなく、セックスして子供ができればそれで幸せだと願ってやまない人がいる。毒にも薬にもならない本を読み、できもしない「ポジティブ思考法」みたいな本を読み、なんの裏付けもないデータや占いでその日のテンションや人当たりを決める大人がいる。

昔からいたのだろうか。しらない。知る由もない。でも、もうこういう人たちに向けた音楽は作らないでほしい。いや、それは違う。作ってもいい。お金になるし。だからそういうのはナオトインティライミとかファンモンとか西内まりやとかソナポケのように、初めからそういうコンセプトのグループを作ってやってほしい。せっかくの良心的なアーティストをわざわざゴミ化させないでほしい。本人がゴミ化してでも金持ちになって名誉が欲しいというのなら仕方ないが。関係のないところでやってほしい。

なんだか高橋優のファンでもないのに、高橋優に肩入れしてしまっている。がんばってほしい。ファンが気の毒。え?勝手にきめつけるな?これで満足してる?
ああ、そうか。君ももうナオトインティライミ化しているのだね。