”佐伯の殿様 浦でもつ。
佐伯の殿さまとは?その城下町とは?”
こんばんは!
本日は、私の所属する大分学研究会の例会(座学)。
今回のテーマは、「佐伯のおおいた遺産を考える」。
県南の佐伯市は、九州一面積の広い市です!
海もあり山もあり。
おおいた遺産もたくさんあり!
そして、歴史もございます☆
「佐伯の殿様 浦でもつ」。
江戸期、佐伯藩は干鰯(ほしか:イワシを干して肥料に活用)で、藩の財政を潤しておりました。
佐伯市街地にある城山が、佐伯城でした。
そして、その麓には、武家屋敷(山際通り)が残ります。
※佐伯の歴史や城下町については、過去の魅力体験ツアーで詳しめにご紹介!
さあ、その佐伯の殿様とはどのような方だった?
城下町の様子は?
佐伯について学習いたしましたm(__)m
☆基調講演「城山と山際通りについて」
・講師:宮明邦夫氏(株式会社まちづくり佐伯代表取締役)
県南落語組合会員でもある宮明氏。
笑いあり、演劇あり、素晴らしい話芸で、主に佐伯藩城主毛利氏や山際通りの井戸のお話を頂きましたm(__)m
[1.佐伯の領主]
・室町期までは、佐伯氏(栂牟礼城)という勢力が佐伯地域(南海部)を支配していた。
・江戸慶長期、毛利氏が佐伯藩主(2万石)に。拠点も現在の城山へ。
[2.初代藩主:毛利高政公]
・尾張出身、もともと森勘八郎という名。
→のちに、毛利輝元公から「毛利」という姓、黒田官兵衛の先祖?から「高政」とう名を与えられた。
・豊臣秀吉公の子飼いの武将(期待の若手家臣)のひとり。
→この他、加藤清正公、福島正則公、小西行長公などが子飼いの武将。
→本能寺の変の際、秀吉公の中国大返りにて、毛利氏の人質に。そして、上記エピソードへ。
・朝鮮出兵時、軍目付(戦場の様子を監視・秀吉公へ報告)の役を担う。
→小西行長公が危機に瀕しながら、敵前逃亡した大友義統公の様子を秀吉公に報告したのが、この毛利高政公。
→これが原因で、大友氏は豊後改易。小藩分立へ。
奇しくも、佐伯藩開祖は毛利高政公。
・佐伯市街地の城山に新しく城を築く。
・高政公以来、毛利氏は12代佐伯藩を治めるが、一代も肖像画を描かせなかったという。
→秀吉公への恩を感じ、自分が立派に肖像を残すのは畏れ多いための推測される。
→現在の城山にある銅像は、高政公が亡くなって数年のうち(人々の記憶にあるうち)に作られた木像をもとに制作。
▽城山
[2.8代目:毛利高標(たかすえ)公]
・日本三大文庫のひとつ、佐伯文庫を設立。
→出島から本を取り寄せ、その数なんと8万冊!
→ゆえに、高標公は当時の三大学者大名と言われた。
▽城山の麓にある佐伯市歴史資料館に、佐伯文庫の蔵書あり。
[3.三義井]
・8代:高標公時代、城下町の水の便が悪かった。
→藩医で篤志家の今泉元甫(いまいずみげんぽ)氏が、城下町(山際通り)に3つの井戸を作った。
・(1)「安井(あんせい)」=”安心して米炊き等に使える井戸”という意味。
・(2)「甘泉(かんせん)」=”酒造りに適した甘さ”という意味。
・(3)「唖泉(あせん)」=”井戸端会議中は悪口を慎むように”という注意書きがあったようだ(おそらく最も城山に近い位置にある井戸→城主に悪口が聞こえないように…という理屈か?)
▽安井。
以上、城山と山際通りの講義でした。
宮明氏、ありがとうございましたm(__)m
その後、会員だよりのコーナー。
イベントの告知を行います。
今回初めて私も宣伝!
そう、豊後大野カルタ!!
おおいた遺産にちなんで、豊後大野遺産が詰まった!?作品となりそうです!
複数の会員から、「新聞に大きく出てたな~!」と、激励のお言葉を頂きましたm(__)m
また事務局の方からも、「大分学研究会と一緒にできたら面白そうだね!」とのお言葉も☆
実は先日の県連会議でも、「大分県版のカルタづくりもいいかも!」とのアイデアあり!
今後の夢が膨らみますね!
まずは、豊後大野カルタの完成を頑張ります☆
さて、来週2月11日(日祝)は、佐伯市のおおいた遺産ツアー!
・ルイサの墓(おおいた遺産ではないが、すみつけまつり会場近くのキリシタン史跡として訪問)
・城山
・佐伯寿司
・津久見の石灰鉱山(車窓見学)
…を訪問・学習・堪能!
私はツアーには不参加ですが、すみつけまつりとルイサの墓は訪問予定です!
(午後、豊後大野で予定があるため、ツアーには不参加)
県南の魅力を改めて感じ、ぜひ未来へ引きついでいきましょう☆
以上です!
最後までご覧いただき、ありがとうございましたm(__)m
=======================================
☆HP→http://www.geocities.co.jp/takatch2002/
☆【トリップアドバイザー】お勧めブログ
☆1日1クリック頂けると嬉しいです♪☆
にほんブログ村