私の家族は
 
両親、そして孝太郎・幸子・京子の三人兄妹

我々三兄妹が小さい頃
母は役者の女将さん業が忙しく又昔から体調が不安定な事もあり母方の祖母が、晩年の半分以上
我家のお手伝い、子守をしてくれていました。

ご存知な方もいらっしゃると思いますが
母はチャキチャキの祇園町の人間
その又母、祖母もその又昔は祇園町でお茶屋さんを営んでいました。
お茶屋さんは曾祖母の代で廃業し
普段は母の妹と暮して京都から出た事の無い祖母でしたが、母が三人の子供を抱えて父も一番大変な時期、住み慣れた京都から身一つで我家へ助っ人に来てくれました。
見た目は小さく優しい人で根っからの関西人でしたので関東特有の軽い地震があると
『いゃ お兄ちゃんどうしょ』
と小さい僕に頼ってくれていました
晩年になってから夜中に地震があると必ず祖母の寝室へ走り「お婆ちゃん大丈夫だからねぇ」
と何回走った事か、因みに祖母の部屋は僕の部屋の隣でした(笑)

口癖は

『へい おおきに』

これはYESともNOともとれる言葉なので
意思疎通に困る事も度々…


学校の行事で旅行に行く時は祖母は必ず
『お兄ちゃんちょっと』と部屋へ呼びだし
『ママには内緒にして、これで美味しい物を食べて来てね』とお小遣いを渡されていました。

祖母は紫色が好きだったので
僕は必ず紫色で良い物を見付けるとお土産に買って帰っていました。
「ハイおばあちゃん…この紫色を見たらおばあちゃんのイメージだったから〜」
とアクセサリーなどを買って帰ると
『こんなの買ったら、、、えらい散財させて』
と恐縮しながらも笑顔で受け取ってくれ
何かのお出掛けの時にはそのアクセサリーを
身に付けて出掛けてくれていました。

そんな、祖母も晩年最後は京都にいたいと言う願いから伯母の家で過ごし
七月に倒れ亡くなりましたが
この七月は私も父も毎年大阪のお芝居で
朝から晩までの出ずっぱりが多かったのですが
その年に限り二人とも夜の部も比較的早目に終わり父と二人で京阪電車に乗り京都へ行き最終位の京阪電車で大阪へ帰る日を続け祖母の最期を見届け見送る事が出来ました。
父と二人で京阪電車の往復は良い意味で思い出にもなりました。


しかし関西にいる時に看取る事ができ
不思議な縁を感じました。


そんな僕ら兄妹の育ての親と言っても過言で無い祖母、千之助の初舞台は見れませんでしたが
生まれて少しして両親がひ孫を連れての温泉旅行を企画してくれて、ひ孫連れの旅行が出来たときには祖母も本当に嬉しそうにしていました、両親に感謝です。


さてさて
そんな祖母の好きなスィーツが
『プッチンプリン』
生前は僕も一緒によく食べました。


先程も書きましたが、毎年七月は
大阪にいるので命日の日は食事の時に
献杯だけはしていましたが
僕の知らないところで家内が毎年命日に東京の
お仏壇へプッチンプリンを供えてくれていたみたいで…
会った事もない祖母への御参りに感謝
 
そして昨日はいつも家内がお供えする
プッチンプリンを

僕が直接お供えする事が出来ました。

こればかりはお休みに感謝かな、


追伸…
お供えするプッチンプリンは
勿論、私が『ぷっちん』させて頂きました。