1994年3月26日

僕のおじいちゃんこと

十三代目仁左衛門の亡くなった日で御座います。

当時私は、南座の若手公演に参加させて頂いており、
時蔵兄さん、当時橋之助兄さん、当時染五郎さんと舞台に立っておりました。
松嶋屋の他の役者、父兄弟・従兄弟は東京の舞台で男で京都に居合わせたのは僕だけでした。

祖父は病院ではなく自宅にて伯母や家族に世話をしてもらっており、三月も前半はおんとしながら寝ながらも普通に会話したりして私の演し物
「三人吉左」の話などを聞かせてくれたりしていました。

祖父とのエピソードも色々ありますが、
一つお話をしましょう
祖父は大変なご馳走好き、グルメでした。
私が小学校二年生くらいの時に、当時東京公演の折の借家が渋谷の松濤にありました、私は祖父母には大変に可愛がられていたので休みの日などは泊まりに行ったりしていて
そんなある日、松濤の家で「ビフテキ」を頂く事になったのですが、何故か祖父が私のビフテキを
御身ずから焼いてくれました。
基本的に我家は「男は台所へ立つな!」と十三代目にも十五代目にも教わりました。
が、たまにイレギュラーがあり
祖父がビフテキを焼いてくれたり、父が袋のインスタントラーメンを作ってくれた思い出があります、秀太郎の伯父に至っては伯父の家に泊まると朝御飯は勿論、夜ご飯も作って貰った事もありました。

話は逸れましたが、
普段、口にする機会がなかったビフテキなので当時は喜んで食べたと思います。
又その事を自宅へ帰って喜んで自慢して両親に伝えると、
父の機嫌があまり良くなかったそうです、後から母に聞きました。
父の兄妹は八人、末から二番目にそこまで構う暇も無かったと思います。

それはさておき、祖父は
大変なグルメ?こだわりがあり
楽屋でも普通の幹部役者の昼ご飯の定番は蕎麦の出前でしたが、祖父はフランスパンにスープを付人さんに用意して貰ったりしていました、
南座では隣の蕎麦屋「松葉」さんのニシン蕎麦を好んで食べていました。

祖父が亡くなる一週間前?十日位前でしたでしょうか
夜中に「ビフカツ」が食べたいと言いだし
伯母が肉を探しに外出してようやく肉を手に入れて食も細くなっているので小さなビフカツを用意して食べる事に、さて周りでビフカツには飲物は何が合うか、、、、と談義になり
水差しへ水ではなく「ビール」を入れて
祖父へ差し出し、少量のビールにビフカツに大満足して又眠りについたエピソードがありました。

26日は、そんな祖父を思い出しながらひとり
昔ながらの「ビフテキ」と「ビール」に舌鼓し
自宅の仏壇へ手を合わせ今年の3月26日は
終わりました。


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