1988年

新神戸オリエンタル劇場杮落とし公演


蜷川幸雄演出
『仮名手本忠臣蔵』

これが蜷川先生との初対面のお仕事でした。
当時歌舞伎役者では
嵐徳三郎さんが「マクベス」
坂東八十助兄さんが「近松心中物語」
このお二人くらいしか蜷川さんの仕事をされた方はなく、戦々恐々只々恐い・怖い演出家の人と言うイメージしかなく

稽古に入る前に当時の八十助兄さんへ
心構えなどを教わりに行きました。

兄さんから聞いたのは
『先ず台本を一字一句間違える事なく覚えてから稽古に入った方が良いよ~』

『最近は灰皿は投げなくなったらしい、、、、、』

と言う事を聞いてからの参加


いまでこそ若い歌舞伎役者が他の芝居やミュージカルに出る事は度々ありますが
当時としては珍しい事、又この公演は
稽古を入れたら四ヶ月間

二十歳そこそこの歌舞伎の芸が足についていない状態で四ヶ月間本歌舞伎から旅に出すのには当時の父孝夫も考えた事でしょう
僕は新しい事が出来る!と高鳴る胸を抑えながら父のオーケーを待ちました。

作品が「仮名手本忠臣蔵」私達の教科書の様な作品ですからそのお蔭か松竹さんや親からも行って来い!の一言がもらえました。


初めての稽古日
直ぐに立ち稽古かと思いましたが、
先ずは本読みの稽古から、、、

この作品の所作指導が私の伯父、父孝夫の従兄弟にあたる先代花柳錦之助が担当
蜷川先生から、
『たかたろうくん歌舞伎役者なんだからアドバイスよろしくな!』
と予想しなかっ言葉を掛けられ
又伯父の錦之助からも
『振り写しを手伝ってくれよな』
との言葉

この人達、僕が何も出来ないのをご存知ないんだ(泣)と思い役者孝太郎の稽古以外の用事が増えて大人になった様、認められた様な感覚になりハリキッて稽古や勉強に励みました。

又その時伯父の錦之助が末期癌だともしらさせ責任の重さを感じ錦之助長男(私の再従兄弟)と共々一生懸命つとめました。

新劇の稽古って
稽古が終わると同じ場面とかに出ている役者さん女優さんとか数人集まり今日の稽古の反省会、明日はこうやってみようよ
蜷川さんに注意された事はこう回避しようよ、、、、などの反省会という名の居酒屋での飲み会。
コレも自分には初めての経験でした。


稽古中盤にかかった頃、蜷川幸雄先生のストレスがピークに、
何やら便から錠剤を出してバリボリ食べていました。
後から聞いたら胃薬だそうです。

その直後、伝家の宝刀

『おい!こら~~』

と灰皿がフリスビーの様に頭上をかすめて飛びました。

周りからも「最近は飛ばない」
本人も「とばなさいよう~~」と
言いながらのフェイント【灰皿投げ】

久々らしく
ご本人も笑顔でコントロールを気にしていらっしゃいました。
怒りながらもチャーミングに見えました。


舞台稽古迄後一週間となった時

僕の相手役の女優さんが毎日同じところで注意されているなぁと考えていたころ
蜷川さんサイドから
『今日で相手役の女優さん降板させるから後の引き継ぎよろしく』

と言われ

今まで彼女とミーティングにミーティングを重ねてやって来た物は何だったのか?

驚くというより若気の至りで頭に血が上りました。数日は収まらなかったのを今でも覚えています。

でもコレが演劇の最先端。
ここで生きて行けなければ役者としている価値が無いんだ…

又演出家はどんな手段、どんな状況、条件でも、最高の芝居を作らなければならい絶対の人間なんだ。

と思いました。

その日本を代表する偉大な人
後10年は現役でいて欲しかったです。

蜷川さん
ありがとうございました。

心から感謝しています。    

ご冥福をお祈りしています。

異国の地より
孝太郎


いつもblogを読んでくださっている皆様には申し訳ありませんが数日休ませて頂きたいと思います    m(_ _)m