神仏に供えるに我思う | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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時事問題から思想哲学に至るまで、世間という名の幻想に隠れた真実に迫る事を目的とする!

政治の話で恐縮なんだけど、現在与党の自民党ね…

 

私たち国民から税金をタンマリと回収して「そんなの後から困っている人へ分配したらいい」って世界観の人たちなのよ。まあ、実際は取りっ放しなんですけど。

 

それに対して、日本維新の会って真逆なんだよね。

「後から配るくらいなら、最初から取らなきゃいいんじゃね?」って考えなのよ。

 

別に「どっちがどう?」とかいうつもりは全くないんだけど、政治でもこんだけ違うんだから「他でも考え方が違っていてもイイんじゃないの?」って思うのよ。

 

 

■お供え物

 

オイラって「お供え物」なんていう世界観が全く解らないんだよね。

 

アレって、早い話が神仏とか故人とかいう形而上的な存在に対して、「コレ召し上がってください」とか「一杯どうぞ」とか「お花をどうぞ」とか「とにかく金やるよ」とかいう気持ちを込めて差し出すものじゃないですか。

 

まあ、宗教や神道にもよるけど、細かいところは違っていても、結局のところは感謝するって事じゃない?

 

素朴な疑問としては、日本は日本の風習があったり、諸外国では其の国の風習があったりするんだよね。当然ながら、辿ってきた歴史が違うんだから、作法も違っていたりする。ここまでは解るんだよね。

 

で、結局のところ「それをしたからといって一体何が変わるの?」って話ね。

神様に「食べてください」と差し出しても、そこにはずっと食べ物が残ったまんまだし。「結局、食べるんでしょ?」って訳よ。

 

ずっと置いたままなら食品ロスになってしまうからね。

 

そういうのってお正月の鏡餅みたいなもので、包丁を入れずに手で割る訳よ。神様の力が宿ったものだからね。で、それを有難く頂いて年の縁起を担ぐって話よね。

 

ところで神様ってどこにいるの?

 

 

■お供え物って形式じゃなく

 

神仏やご先祖様に感謝するという意味では共通と思うんだよね。

因みに、幸運が訪れる人ってのは、自分自身が幸運になれる人なんだよね。

それ以上でも、それ以下でもないのよ。

 

ところで「天国と地獄の食事」って話があるんだけど…

2つの部屋が登場するんだよ。

 

どちらの部屋にも、テーブルに一杯の御馳走があるんだけど、お箸が物凄く長いのよね。1メートルくらいだったかな?「どうやって食べるの?」ってところ。

 

1つ目の部屋では、みんな食べるのに苦労してんだよ。どうやっても箸が長すぎて食べ物を運べないんだよ。部屋の外には「地獄」って書かれてんの。

 

2つ目の部屋では、みんな美味しく食べれてるんだよ。よぉ~く見れば、長い箸を上手く使って食べ物を取り、自分じゃなしに隣の人の口に運んでるんだよ。そうやってグルりと1周まわっている。部屋の外には「天国」って書かれてんの。

 

ここまでが話なんだけど…

「オイラの天国と地獄の食事」には3つ目の部屋が登場するんだよ。

 

部屋には御馳走も長い箸も置かれてんだけど…誰もいないんだよね。

呼んでも誰も来ない。仕方ないから、食事の準備をした人たちが食べた訳よ。

そんな部屋の外には一体何て書いてあったか?

 

「人」って書いてあったんだよ。

 

譲ったんだよ。

お供え物なんて、譲る事なんだと思う。

 

自分が食べなければ、その分は他の誰かが食べられるんだよ。

別に、作為がある訳じゃない。純粋に譲ろうと思ったんだろう。

 

気持ちは浄化されているはずだ。

そういうものだと思うよ。