個性を出したいのなら、まず真似をしろ! | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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「人間は個性が大事だ。だから流されるな」

世間でよく言われている言葉です。最もらしい事のようですが、なぜか引っ掛かるのよねえ。


そもそも個性って何なの?

goo辞書を覗いてみれば「個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー」とある。要するに、他と違って目立っていることらしい。

じゃあ「その個人性やら特有の性質である事をどこで判断するの?」という話になるよね。でもさぁ、こういうのって比較対象がなかったら解んないのよ。

 

自分では個性的と思っていたつもりでも、いざ蓋を開けてみれば「なぁ~んだ。どこにでも居そうな普通の人じゃね?」なんて話がよくあるし。

「個性を持ち続けるには、個性ではないものを知る必要がある」って誰かが言ってたっけ。何かよく解んないんですけど(呆)
どっちにしても、ひとり好き勝手やっている程度では個性とは呼べないわね。

 

例えば「協調性も大事だけど個性も必要だ」っていう人がいるけど。。。

本当は「協調出来るから個性も出せる」となるんじゃね?

じゃあ、どうしてそういった勘違い人間が増えるのかといえば、それは「協調とは己を押し殺して集団に合わせることだ」と社会が勝手に決め付けているからと思うんだよ。

 

己を押し殺してまで集団に合わせないと協調出来ないのなら、その人の個性なんて取るに足らないのさ。人間の個性って集団の中でこそ生かし生かされるもの

個性がぶつかり合うことによって、普段はいがみ合っていても、喧嘩し合っていても別にどうってことはない。要は、集団が同じベクトルを向いて機能さえすればいい。それが協調ね。だから、人間の個性は集団の中で生かし生かされる。

従って、それとは反対に、仲良し集団が協調出来る可能性は低いと思う。
因みに「役割」とは、個性のひとつが顕現したものだね。

じゃあ、そんな個性はどうすれば出せるのだろう?
いや「作れるのか?」と言ったほうが正確なのかもしれないけど。

以前、どうしようもない偏差値の低い学校の落ちこぼれを集めて東大合格を目指すというドラマがあったのよ。確かタイトルは「ドラゴン桜」だったと思う。

 

弁護士の桜木健二に招聘されて壇上にあがった数学教師・柳鉄之介ってコワぁ~いお爺ちゃんが居てね、持っている竹刀を振り回しながら詰め込み教育をするんだ。

 

反発する矢島くんたち生徒は

「俺たちを型に嵌めるな。もっと個性を尊重しろ」というんだね。

それに対して柳先生が一喝!

「型がなくてお前らに何ができる? 偏差値36のクズ共が生意気を言うな! だいたい素のままの自分からオリジナルが生み出せると思ったら大間違いだ。創造するってことは真似ることから始まるんだ。お前らにその基礎があるっていうのか? 型に嵌めるななんてホザく奴は、ただのグウタラな怠け者だ」

個性を出したいのなら、何でもいいので、真似るところから始めてみてはどうかと思う。そこで、基本となる型をみっちり身につけるのよ。

今でこそ日本の自動車産業は世界に誇れるものなんだけど、最初は先進国の真似から始まったものさ。それで現在の国産車が個性に欠けるのかと言えば、全くそんな事ないじゃない。

天才棋士の羽生善治さんの将棋には型というものがないみたいだね。

その更に先を行く藤井聡太さんだって、その類かも知れないけど…

だからと言って、定跡を知らない訳じゃないのよ。知り尽くしているからこそ、そうでない将棋を指せるって訳よ。

真似をしたからといって個性がなくなる訳じゃない。人間はそれぞれ容姿や精神が違うのであり、だからこそ、真似をしたところでも、個性は出るものさ。

 

自分自身の引き出しを多く作ると思えばいいんじゃね?って思うのよ。