環境は本当に人を変えられるのか? | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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 通勤は、思っている以上に疲れるものです。

 

自家用車だと快適な空間こそ生まれますが、その外側には危険がいっぱい潜んでいる。だから、運転に神経を使うし、これがバイクや自転車の二輪車になれば身軽にこそなれますが、反面、季節や天候の影響により肉体的・心理的な負担まで掛かってきます。

 

そう思えば、バスや電車での移動は運転の必要がない分だけ楽です。ところが、こちらはこちらで乗車の環境によって疲労度も変わってくる。

 

世間的には「通勤は近いほうが良い」なんて言われてますが、これって案外迷信なのかも知れません。自宅と勤務先との環境は天と地ほどの差までとは行かなくても随分と違うものです。移動とは「その環境の変化へ対応するまでの下準備」という役割もある。近過ぎると「もう着いたのか」と降車せざるを得なくなり、また忙しなく歩き、気がつけば「あ~あ、また会社に来ちまったぜ」と溜息をつく、なんてなりかねません。

 

「距離は遠いかも知れないけど、君ん家の最寄駅は快速急行が停まるからいいじゃないか」

 

これもどうかと思います。各駅に停まらない分だけ、車内は人が多くなる。中には鼻水を垂らしながら笑顔でいる者、マスクはしていても此方を向いて咳きをしてくる者、荷物を大量に持っている者、ピクニック気分で騒がしい者、平気で飲食をしている者など、不特定多数の人間と距離が近くなってしまう。

 

神経質な男性なら若い女性が側にいるだけで離れたくなるかも知れない。これは恐らく、痴漢の濡れ衣を着せられたらそれだけで職を失う、一瞬で人生が終わってしまうというマイナス思考が働くからです。運良く座席に座れたとしても、立っているのが辛そうなお年寄りが目の前に居ればやはり譲ってあげることになる。結局のところ、疲労が上積みされることのほうが多くなる訳です。

 

住むなら、最寄駅は通勤に多少遠くても「普通電車でしか停まらないマイナーな駅」であるほうが良いのかも知れません。1人暮らしなら、近年では賃貸でも安くて良い物件が増えてますので。

 

「氣のパワー」なんてものは信じたことないのですが、緑の多い場所、大きな窓のある家(網戸必須)は良いと思われます。昼なら照明がなくても光が届きますし、窓を開ければ簡単に換気が出来る。その外に並木道などの緑があるのなら、その息吹を取り込める。睡眠の割りには不思議と疲れが取れるものです。気持ち的にも少しずつ穏やかになれるのかも。

 

どちらにしても各々の気に入った環境に身を置く、又は、そのように作り変えるという努力はしたほうが良いかと思いますね。