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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

 ことばに頼りすぎている。ことばはことばであるがゆえに、すでにそのことで痩せている。ことばに置き換えた時点で、もうはじめの姿は失われている。五官で感じたそのものが世界のすべてであったはずなのに。

 ことばは音には敵わない。ことばは味には敵わない。ことばは色には敵わない。ことばは匂いには敵わない。ことばは痛みには敵わない。音をことばであらわす試み、味をことばであらわす試み、色をことばであらわす試み、匂いをことばであらわす試み、痛みをことばであらわす試み、すべては徒労に過ぎない。聴いてごらん、舐めてごらん、視てごらん、嗅いでごらん、触れてごらん。ことばに置き換える必要なんてない。感じたそのままがもっとも正しくその経験をあらわしているのだから。

 

 忘れていく、忘れていく。こどものころの、ことば以前の感じ方。ことばを知らないこどもたちには、五官が世界そのもので、聴こえる笑い声や、舐めた甘さや、視える回転や、匂う空気や、触れた手のぬくもりが、ことばという媒介を経ることなく、直接、減衰も増幅もすることなく、わたしの世界に接触してくる。いや、そもそもわたしなんていない。わたしは世界という認識の一部分にすぎない。そして部分であることは全体であることと同じである。つまり世界の全体であるわたしはわたしを発見することなどできるはずがなく、したがってわたしに囚われることもなく、積み重なり、広がり、膨れていく。

世界の平衡が崩れ、何もないところから1が湧き出る。1が2、3、4を産む。2、3、4は不完全なまま消える。1は5、6を産む。1のもとで、5、6は成長する。5と6が交わって7、8、9を産む。7は消え、8は旅に出て、9は残る。どこからともなく10があらわれる。9と10が交わって11、12、13を産む。11、12、13は2、3、4の生まれ変わり。11、12、13を残して9と10は旅に出る。5と6が11、12、13を育てる。1はいつまでも消えない。旅の途上で8は14と出会う。14は実は7の生まれ変わり。8と14が交わって15、16、17を産む。11、12、13、15、16、17の愛憎。最後に9と10がここではないどこかから帰ってきて、世界にふたたび平衡が訪れる。

ぼくが江國香織さんの作品を読んだのはこれが2冊目。

 

ほんとに

なかなか暮れない夏の夕暮れ

って感じの雰囲気。

 

親譲りの資産家だからか

働いてなくって小説ばっかり読んでる主人公の稔。

 

この小説のなかでは2つの作品を読んでる。

 

ミステリの部類に入るのかな。

 

本編とは直接関係がないはずの2つの小説が

なんだか妙に本編とリンクしてるみたいに感じられるから不思議だ。

 

江國さんの小説は

登場人物たちの微妙な感情の表現がすばらしいんだけど

この作品は技巧的にも本好きをうならせる。

 

っていうか

本好きにとっては至福の読書時間を共有させてくれる。

 

入り込んでいる本の世界から引きはがされて

現実のあれやこれやに戻るときの

本と現実とのあわいのあの感じ。

 

稔がそんなに早く読むタイプじゃないのもいい感じ。

 

できるだけゆっくりたっぷり作品の世界に浸かっていたいからね。

 

稔と雀と波十が

三人で静かに読書する場面が好き。

 

読書好きの行動原理を理解できない周囲のひとたちの描写もいい。

 

まあひとそれぞれだから仕方がない。

 

どっちがいいとかわるいとかはない。

 

そして

ラストでにんまり。

 

 

 

 

 

--なかなか暮れない夏の夕暮れ--

江國香織