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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

 よく見る気にはならなかったが、バケツの中には何か生き物がいるような気がした。かえる? たがめ? ざりがに?

 向こうからこどもたちが数人で走ってきた。バケツを見て歓声をあげる。

 あーっ、あったあったー、よかったー、まじでなかったらどうしようって思ってたー、きのうつかまえたひるー、まだ生きてるかなー?

 ひる。ひるか。そうか。それは候補に入ってなかったな。この子たちはひるなんか捕まえてどうしようっていうんだろう。

 水を張ったばかりの田んぼに、朝の光が反射して、鏡のように空と雲とを映し出していた。

 

 駅の前まで来るには来たが、どうにもこのまま電車に乗る気にはなれず、駅の向こう側にある喫茶店に向かった。

 古びた喫茶店。からんからん。乾いた鈴の音を立てながら扉を開けると、朝から疲れたような顔をした店主がちらりとこちらを一瞥し、軽く会釈をした。

 客は誰もいない。ほのかに音楽が流れている。プロコフィエフのピアノ協奏曲第五番ト長調作品五十五。好きな曲だからすぐにわかる。寓話的でおちゃめな作品。皮肉も利いている。この喫茶店の雰囲気に合っているのかどうかはよくわからない。ちぐはぐな印象もなくはない。

太陽

惑星

私の恋人

異郷の友人

ときてそろそろこの世界観というか作風を続けるのには

ネタ切れ弾切れかな

なんて思ってたら

とんでもない。

 

まだまだこの作家の壮大なスケールの想像力は尽きない。

 

ぼくは好き。

 

まあこういうのに興味がないひとには

ちっともおもしろくないかもしれないけど。

 

田辺と水上の対話。

 

神ポジション。

 

ぼくもついつい気をゆるめると

そんな感じで話してしまう。

 

神ポジションって

日常の些事を棚におけるから

楽なんだよね。

 

無責任に神目線で語る無駄話。

 

美希子アサイン。

 

これは作品とは無関係の感想だけど

親しい女性と

ふだんの関係性とは異なるシチュエーションで偶然会うと

なんだかどきどきするよね。

 

街を歩いているときに

後姿をみてきれいな女性だなと思っていたら

よくみるとふだんから親しい女性だったりして

そんなときはちょっとはずかしい。

 

そんなふうにして

出会い直す

田辺と葵。

 

田辺にとっての葵の変化。

 

だんだんと自他の境がぼやけてくる。

 

わたしがあなたで

あなたがわたしで。

 

それが連鎖して

いつか人類全体に

あるいは宇宙そのものが一体化する。

 

っていうか

素粒子レベルでは

すでに自他の境なんてないよね。

 

冗談なのか本気なのか。

 

まあぼくはけっこう本気なんだけど

世間的には冗談っぽく話してみたりする。

 

この単行本に収められているのは

表題作のほか

重力のない世界

双塔

の2作の掌編。

 

20~30ページのこれらの作品の方が

先に発表されているので

それを素材にイメージを膨らませて

表題作が描かれたんだろうな。

 

無機的なこれらの作品もぼくの好み。

 

ぼくたちはすでに肉の海の一部なのかも。

 

座標になりたい。

 

っていうかもうなってる。

 

新潮では

キュー

の連載もスタート。

 

 

 

 

--塔と重力--

上田岳弘

 鳥になりたいと思いませんか。自由に空を飛ぶ鳥に。けれども鳥は自由に空を飛んでいるわけではありません。飛ばされているのです。それはたとえば風の流れであったり、空気の温度差であったり、湿度の差であったり、気圧の差であったり、あるいは鳥自身の翼の状態であったり、筋力であったり、そんなさまざまな要素によって、飛ぶタイミングも、飛ぶコースも、すべてはあらかじめ決定されているのです。鳥自身の意思なんていかほどにも反映される余地などないのです。それはあなたの気まぐれな逃避と同じように。もしかするとそれでも鳥自身は自分の意思で飛んでいると信じているかもしれません。しかしもしも鳥自身が、自らの意思で飛んでいるのではなく、飛ばされているのだということに気付いたとしたらどうでしょう? 鳥は絶望するでしょうか? あなたはどうでしょうか?

 

 朝。水を張ったばかりの田んぼの傍らを走る灰色のアスファルトの道路の上に、ちいさな網と青いバケツが置かれている。あたりに人はいない。バケツの中には水が半分ほど入っている。

 昨夜、帰りにここを通ったときにも網とバケツが置いてあった。夜闇のなかで街灯に照らされたそれは、突然飼い主を失った犬のように呆然とそこに立ち尽くしていた。夕暮れまで田んぼで虫取りをしていたこどもが、うっかり道具を置いたまま家庭からの夕食の呼び声に連れ戻されたのだろう。どことなく所在なさげにみえる網とバケツ。夜通しこの田んぼの傍らのアスファルトの道路の上で、車に弾き飛ばされることも、千鳥足の酔っ払いに蹴り倒されることもなく、朝を待っていた。

 同じ網とバケツでありながら、夜見たそれと朝見るそれとでは、印象がまるで違っているのが不思議である。つまりは光のあたり方、あるいは見る者のこころのありようの問題なのだろうか。