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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

  粘液の糸をひいて彼女の手から離れるひる、ひる、ひる。それを素早く察知して、空中で奪い合う鳥、鳥、鳥。

  鳥の激しい羽音に気をとられているうちに、少女と思えた女の子の姿は消えていた。まるで鳥に運び去られたかのように。

  そして女の子がいた場所のちょうど延長線上に巨大なモニュメントがそびえたっていた。

  いつの間にか、こんなにも近くまで歩いて来ていたのか。

  ふと、白い塔をみてこんな考えが頭をよぎる。もしかするとこの塔はひるこのメタファーなのか。

  しかし、その考えをすぐに打ち消す。そんなはずがあるものか。このモニュメントはこんなにも生命力をみなぎらせている。それにひきかえ、ひるこはどちらかというと死に近い場所にいる生き物じゃないか。彼女が言っていたえびすとひるこの共通性なんて、信じられるものか。なんでもかんでも何かのメタファーじゃないかと思うなんて、よくない癖だ。気を付けないと。

  そんなことをひとり考えていると、ぽつりぽつりと雨がからだにあたる感覚がある。

  降り出したか。と思うと急に、雨脚が強くなりだした。あわててひとまず塔に向かう。

  雨を避けられそうな建物は、このあたりでは駅とこの塔だけだ。塔の方が近い。

廿余丁(にじふよちやう)山を登つて滝有(あり)。岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流(ひりう)して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落(おち)たり。岩窟に身をひそめ入(いり)て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝(まうしつた)え侍(はべ)る也(なり)。

 

暫時(しばらく)は 滝に籠(こも)るや夏(げ)の初め

 

 

 

 

東照宮から二十余丁(2.5キロほど)上がったところある滝。

 

裏から見ることができるので「裏見の滝」というらしい。

 

いまは真冬なのだが、冬至を過ぎた光はどことなく夏の気配を含んでいるような気もする。

 

気が早すぎるだろうか。

 

滝を裏から見ることを想像して清涼感を得る。

 

ところで「裏見」ときくとつい「恨み」とかけたくなる。

 

あんまり物事の裏ばかりみていると

恨みがましくなってしまうよ

なんてただの駄洒落かことば遊びか

 

ドラマチックなことは

裏とか際とか隙間とかで起こっているような気がするので

ぼくは好き。

山里は 冬ぞさびしさ まさりける

人目も草も かれぬと思へば

 

源宗朝臣

 

 

 

新年あけましておめでとうございます。

 

2018年は戌年ですね。

 

最近ねこ族に押され気味のいぬ族ですが

今年は捲土重来

挽回できますでしょうか。

 

都から遠く離れた山里。

 

もとよりさびしい場所とはいえ冬は特にさびしさが募ります。

 

ひともさらに遠ざかり

草木さえも枯れてしまうのですから

さびしいことこのうえなしです。

 

じゃあ山里なんかにいなけりゃいいじゃない

って軽々しくいわれるかもしれませんが

山里があってこその都のきらびやかさ。

 

あるいは都の喧騒を逃れるための山里の静寂。

 

日々の競争(狂騒)に疲れたあなたは

ときに山里であなた本来のリズムを取り戻すことができるかも。

 

今年はぼくにとっては真価が試されるかもしれない年。

 

世界もどうなっているか予測がつかない

っていうか悪い予感しかしない

っていうのが本音ですが

どうか平和でありますように。