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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

なんともやるせない日々が続いているので

かねてから気になっていた

つげ義春さんの

無能の人

を読んでみようと思った。

 

よく聞くタイトルなんだけど

読んだことがなかったんだよね。

 

ぼくが読んだのは

新潮文庫の

無能の人 日の戯れ

っていう短篇集。

 

うわあ

わびしい

しょぼくれてる

地味

せこい

もうちょっと努力しようよ

みたいな気持ちで読んでいた。

 

石を売るのはかまわない。

石に芸術が宿ることをぼくは理解する。

でも選んだとはいえ拾った石をその河原で売るって

あまりにもあまりにも。

 

無価値なものに価値を創造して

あたかも価値のあるもののようにしたうえで

ほしいひとに売る

っていう錬金術をぼくは否定しないので

せめてそういう商売にしてほしい。

 

あまりに工夫がなさすぎる。

 

せいぜい石に名前をつけるくらいなんだけど

その名前がまた平凡というか

ありきたりというか。

 

それで商売になるはずがない。

 

最近のぼくは調子がわるくてネガティブなので

この漫画を読むことができるんだと思った。

 

元気でポジティブなときには読めないだろう。

 

ちょっとした不平を感じながら

それでも最後まで読みとおし

まあおもしろいのはおもしろいけど

うわさほどの作品でもなかったな

と思ったのが正直な感想。

 

巻末には

吉本隆明さんの解説。

 

ぼくは吉本隆明さんが好きで

それこそ

なんてこともない社会のあれこれに対して

ことばを使って独特の意味づけを行うことにより

価値を創造する

っていう点で

錬金術師的なたのしみを与えてもらえる魅力がある。

 

吉本隆明さんのこの解説を読んで

つげ義春作品はこう読むんだな

っていう傾向ができたにちがいないと思う。

 

それ自体はかまわない。

 

いつだってひとは

誰かのことばに影響を受けるものだから。

 

まあでも

そんなふうな読み方もできるんだな

くらいの距離感がちょうどいいとは思うけどね。

 

しかし

この作品についてだけいえば

やはりぼくは吉本隆明さんの解説には共感できない。

 

とにかく自らの気質にしたがって静かに安らかに暮らしたい

どうしようもなくわびしくてさびしくて社会とつながりたくない

っていうのはわかる。

 

ぼくにだってそんな気持ちはある。

 

競争(狂騒)から降りて楽になりたい。

 

でもそれはひとりで実現するものであって

妻や子を犠牲にしてはいけない。

 

時代が違うということかもしれないが

こどもの視点に立てば

半出生主義を唱えたくなるくらいひどいやり方だ。

 

妻と子がいる以上

そこに対する責任は果たそうよ

って思う。

 

それはわかっているけどどうしようもないんだよ

っていうのもわからなくはないんだけどね。

 

 

 

 

--無能の人 日の戯れ--

つげ義春

読み始めは正直なところ

なんだかよくわからないな

って思っていた。

 

でも

読み進めていくうちに

なんだかこういうのいいな

って馴染んできた。

 

ストーリーのはっきりした

連載の漫画ばかり読んでいるので

こういう1話完結でストーリーのない日常的な漫画って

読みなれていないせいもあって

いまひとつどう読んだらいいのかがわからなくて

戸惑いがあったのかもしれない。

 

たあたあたあと遠くで銃の鳴く声がする

なんて

初読はまったくちんぷんかんぷんで

シュールだなあと思ったんだけど

作品の世界観に慣れてからは

とても気持ちよく読めた。

 

アネサとオジ

の2人の話もすごくやさしくて好き。

 

最後の

玄関

もとてもよかったな。

 

ここちよい孤独感とかなしみと。

 

おとなになったふたりを

見てみたい。

 

漫画だからこそ出せるこの空気感世界観。

 

 

 

--高野文子作品集 絶対安全剃刀--

高野文子

発表当時に何かと話題になった作品。

 

読み始めてすぐ

これまで読んだことのない視点で興奮した。

 

あの地震と津波の現場を

こんなふうに表現した作品は読んだことがなかったからだ。

 

人間は極限状態に追い込まれると自分でも制御できない感情に押しつぶされるんだろうなと

読みながらいろいろと考えさせられた。

 

被災した現場からのたたみかけるような抗議の連続。

 

たしかにぼくたちは

テレビや新聞で流される

災害現場とそこで生きるひとたちのなかに

勝手なドラマを投影し

消費していたにちがいない。

 

高校生くらいならこんなふうに斜に構えた姿勢で

視聴者が観たがるような被災者をカメラの前で演じることだってありえるだろうなと思った。

 

ぼくたちはそういう可能性から目を背けていただけなんだ。

 

それにしても

こんな目に遭ったのならひとを呪ってもしかたがない。

 

斜に構えても無理はない。

 

お母さんの友達の奥さんの存在が主人公にとってはとても意味がある。

 

そしておばさんの存在も。

 

最後まで途切れないテンションの高い内容に

これは世界のひとに読んでもらいたい作品だという思いを強くした。

 

あの災害の現場では実はこういう心理が働いていたんだと知ってもらいたいと思った。

 

と同時に冷静な自分もいた。

 

果たしてこれは震災の文学なのか。

 

震災を舞台に借りてはいるがその実態は青春小説なのではないか。

 

ぼくはあの地震で被害を受けていないから被災者ではなく

そのぼくがこの小説にリアルを感じるのは

ただ単にこの小説が他のノンフィクションの取材の力を借りているからであって

小説的な意味でのリアルとは違うのかもしれない。

 

ぼくがこの作品をすごいと思うのはエンタテインメントとしてで

ぼくもこの小説もまたもやあの災害を消費しているのに過ぎないのではないか。

 

実際に被災したひとはこの小説を読んでどういう感想を抱くのだろう。

 

現実の災害とは何の関係もない絵空事のように思えたりしないのだろうか。

 

そんなふうに懐疑的な思いも抱くなど

この小説が発表されるまでと発表されてからのさまざまな情報が

ぼくの純粋な読みを邪魔するので感想を書くのも複雑な心境だ。

 

でももしかしたらこういうふうにも考えられるのではないだろうか。

 

仮にほとんどの被災者から

この小説は

災害のあった現場に行ったこともなく

被災もしていない作家が

他のノンフィクションの取材の力を安易に借りて

部屋にこもって勝手に作りあげただけの

なんのリアリティもない

自分たちへのいたわりやおもいやりもない

売名のための妄想であり

現実の被災者であるじぶんたちへの冒涜だ

と感じたとしても

ほんのひとりの女子高生が

言いにくかったけど実はわたしはあのときこんなふうに感じていた

この小説を読めてよかった

書いてくれてありがとう

と思ってくれたらそれで意味があるのではないだろうか。

 

多くの作家たちが

被災していない自分が直接的に災害を舞台にした小説を書いては失礼だ

というためらいがあって書かなかったところに

何も失うものがない新人がこわいものなしだからこそ書けたという側面もあるかもしれない。

 

それに

世界のひとたちは

そういう細かな作品制作過程のあれこれには興味がなく

ただただできあがった目の前の作品を読むのだから

この小説が世界に紹介されることには意味があるだろう。

 

この作品をきっかけに

引用元のノンフィクションを読んだり

その先の取材相手のひとりひとりに思いをはせる読者だっているだろう。

 

事実だけがすべてではなく

フィクションのなかに力強い真実があることもある。

 

ファンタジーが現実よりもリアルなこともある。

 

戦争文学も

戦争を経験した者が書いたものもあれば

実際には戦争を経験せずに資料などを基に二次創作したものもある。

 

災害を舞台にした青春小説があってもいい。

 

あたりまえのことだけど災害現場にも被災者にも青春はあるのだから。

 

 

 

 

--美しい顔--

北条裕子