「そうだな。なんでも自分のものにして、持って帰ろうとすると、むずかしくなっちゃうんだよ。ぼくは見るだけにしてるんだ。そして立ち去るときには、頭の中へしまっておく。ぼくはそれで、かばんを持ち歩くよりも、ずっとたのしいね。」
伊藤亜紗さんが書評で紹介していたスナフキンのこのことばが
自由と旅と孤独を愛する
そして他者とのコミュニケーションも嫌いじゃない
彼の生き方と性格をあらわしていて
もっとスナフキンの名言に触れたい
との思いから読み始めた。
ムーミン谷の彗星
原題は
KOMETEN KOMMER
作中ではムーミンのことを
ムーミントロールって呼んでいるけど
ぼくはムーミンと呼ぶ方がなじむのでムーミンと書く。
ムーミンパパとムーミンママは
じゃこうねずみから地球が滅ぶと聞いてこわがるムーミンとスニフに
遠くの天文台まで旅をさせるんだけど
のっけからかなりハードな旅になるわけで
パパとママ
かわいい子には旅をさせろとはいうけれど
もうちょっと行き先と手段は考えた方がいいよね。
で
わりに早い段階でスナフキンと出会い
冒険しているうちにガーネットが輝いている場所をみつけて
それをほしがったスニフがひどい目に遭ったときに
スナフキンが言ったことばが冒頭に引用した
「そうだな。なんでも自分のものにして、~」
ってところ。
それに対してのスニフの返事は
「ガーネットはリュックへ入れられたのに。見るだけと、手で持って自分のものだと思うのとは、ぜんぜんちがうよ」
ってそれもまあ本音の部分ではあってむずかしいね。
欲望にはきりがないので
スナフキンの考え方の方が生きるのが楽だとは思うけどね。
でもスニフみたいな素直な欲望が
科学を進歩させているっていう面もあるだろうし
やっぱりむずかしい。
帰りの売店での
ちいさなおばあさんとのやりとりはシュール。
「こまかいことをいうなよ。そのぐらいのちがいなら、ぼくたちの計算では、あってるというんだ」
ってまあまあむちゃなスナフキンのひとことがあったりして。
ぜんぶ読み終わって振り返ってみると
いわゆるいい子がひとりも出てこない。
みんな思うがままにのびのびしている感じ。
けっこうわがままだったりする。
スナフキンでさえも。
これはこれでうまく互いの関係性が保てるのは
物語の世界だからなのか
それともこの作品が書かれた当時(1946年)のフィンランドでは
こういうコミュニケーションのあり方だったのか。
あるいはトーベ・ヤンソンさんのこどもの頃はこんな感じだった?
いまはどうなの?
フィンランドでもこんな生き方は懐かしかったりするのか
いまでもそうなのか。
他者との違い
多様性を認め
互いを尊重し合う社会のヒントみたいなものが
詰まっているような気がする。
日本の
型にはめて互いを察することによる調和
もわるいわけではないけれど
息が詰まることもあるわけで
ムーミンの世界のひとびとの自由な生き方にあこがれたくもなる。
でもそれは急に適応できるものではなくて
やっぱりいま目の前の他者がスニフみたいに
いちいち気弱なことを言っていたら関わり合いになりたくなくなるかもしれないし
じゃこうねずみやヘムルみたいなひとたちとも親しくなりたくないと思ってしまうから
育った文化というか環境の束縛というのは影響がおおきいんだよね。
物語の世界へのあこがれに過ぎないのかもしれないけど
いつもこころのなかにムーミン谷のひとびとの暮らしを持っておくと
視点に広がりが出て余裕が生まれるかもしれないね。
--ムーミン谷の彗星--
トーベ・ヤンソン
下村隆一 訳