すごくデリケートなテーマ。
もしも受精前の状態で
これから産まれるかもしれないひとと対等なコミュニケーションができるとして
あなたはわたしのこどもとしていまの時代のこの国に産まれますか?
と問うことができたなら
これから産まれるかもしれないひとは何と答えるだろうか。
うん、まあいいよ
なのか
ラッキー!ぜひともよろしく!
なのか
まじか?絶対お断り!
なのか。
いまの社会を見ていたら
3番目の答えが圧倒的に多そうな気がする。
川上未映子さんの
待望の長編は
乳と卵
とつながっていた。
テーマは
産むこと
産まれること
生きること
死ぬこと
だと思う。
先入観なしに読みたかったので
あえて事前情報を出来るだけ入れずに
読もうと思っていたのだが
乳と卵の続編
みたいな情報だけ入ってきていたので
どうしようかな?乳と卵を読み返してから夏物語を読もうかな?
と結構迷ったのだが
夏物語の序盤は乳と卵のリライトだという情報も目にしたので
(ってけっこう情報を入れてしまっている)
乳と卵は読み返さずに夏物語として読み始めた。
生きること死ぬこともテーマになっているけど
メインテーマは
産むこと
だと思う。
例外なく
これから産まれてくるひとの了解を得ずになされる
産むという行為。
だってまだ産まれていないひとの意見なんて聞けないし
ましてや了解なんて得られないからね。
ひとはなぜひとを産むのか。
産んだひと産みたいひとはいろいろ理由をつけるだろうけど
かならずそれは産むひとのエゴである。
もちろんエゴの程度には違いがある。
それは愛だったり自然だったりすることもあって
それをエゴだっていわれると
反発したり
受け入れられなかったりするひともいるだろう。
けれどもどうやったってエゴでしかない。
そのあたりの事情が
主人公の夏子の模索によってはっきりとしていく。
産まれたひとが必ず全員しあわせになれるっていうんだったら
産むことについて
どうぞご自由に
といってもいいんだろうけど
いまの世界を見ていたらとてもそんなふうには思えない。
仮に1万人産まれて9999人がしあわせになると決まっていても
1人はふしあわせになってしまう可能性があるなら
それでも産むということは
いったいだれのためのなんのための賭けなのか。
賭ける必要があるのか。
掛け金を支払わされるのはこれから産まれてくるひとだ。
産まれてきてふしあわせになって
運が悪かったね
なんていわれても納得できるはずがない。
じっさいには1万人中1人どころか
かなりの確率でふしあわせになると思うし。
自分のこどもにどうしても会いたいと思い始めた夏子は
さまざまなひとの考え方に触れる。
さまざまな問題点を理解したうえで
夏子が選んだ結論は
すっきりする答えではまったくもってないけれど
ぼくも共感する。
もちろんこれもエゴである。
産まれてくるひとには
ごめんなさい
というしかない。
でもせめて
ごめんなさい
と言える覚悟だけは持って
産んでほしい。
自分がしあわせに生きているから
自分のこどももしあわせにしたいから
とか
いのちはつながっていくものだから
とか
こどもってかわいいから
とか
そんな理由でもかまわないけど
この
夏物語
に描かれている
産むことの問題点についてもしっかりと理解したうえで
産んでほしい。
ましてや
社会的にこどもがいないと肩身が狭いから
とか
自分がしあわせになるためにこどもがほしいから
とか
こどものしあわせではなく
自分のしあわせのために産むことは
絶対にやめてほしい。
いまの社会では
少子高齢化が問題になっていて
社会を維持するためにもっとこどもを産み育てやすい環境を整備しよう
なんて風潮になっているけれど
社会を維持するためにこどもを産もうなんて考えるひとは皆無だと思うし
万が一そんなひとがいたら
それは産まれてくるこどもに対してあまりにも酷いと思う。
で
ひとを産むことは無条件に善というわけではないよ
というこの夏物語をいまの世がどう受け止めるかっていうのは
とても気になることなのである。
それにしても善百合子。
彼女は夏子の小説に何を感じたのだろう。
残酷な人生に少しでもやさしい風をあてることができるなら
それは小説にとってしあわせなことなんだろう。
全然まったく言い足りていないけど
今回はこの辺にしておいて
とにかく再読しようと思う。
--夏物語--
川上未映子