泣ける
とか
感動
とかいわれると
むしろ敬遠してしまうぼく。
たまにこころが弱ってて
そういうのに吸い寄せられてしまうこともあるのだが
読みながら
やっぱりちがう
って思うことがほとんど。
なんとなく
こういうの泣けるでしょ感動するでしょ
っていわれてる感じがする。
ここが泣けるツボで
ここが感動するツボね
って押されてる感じ。
まあそれで気持ちよくなれるんだったらそれでいいじゃん
っていう気持ちもあるのはあるし
それで気持ちよくなれるひとをどこかでうらやましく思う気持ちも
ないことはないんだけど
これってやっぱり頑固で変なこだわりで損してるのかな。
で
この小説。
文庫の裏表紙にはこう書いてある。
第二次世界大戦中、カリフォルニア州イサカのマコーリー家では、父が死に、長兄も出征し、14歳のホーマーが学校に通いながら電報配達をして家計を助けている。彼は訃報を届ける役目に戸惑いを覚えつつも、町の人々との触れあいの中で成長していく。懐かしさと温かさに包まれる長編。
べつにこころが弱ってるってことではないと思うんだけど
なぜか惹かれて読んでみた。
あいかわらずのねじくれた疑い深い視線で読みながら
はいはいこういうパターンねそれで懐かしい気持ちにさせたり温かい気持ちにさせたりほろっとさせたりするんでしょ
ってツッコミどころをさがしつつページを繰っていたのだが
ツッコミどころが見つかるどころか
どんどん懐かしい気持ちやら温かい気持ちやらほろっとしたりなんかしながらページをめくる手が止まらない。
ええっなにこれどういうこと??
って珍しくクエスチョンマークを2つもつけたりなんかしながら読み進め
第33章のマーカス。
ああっぜったいにぜったいにぜったいに戦争なんてやっちゃいけないどんな事情があっても戦争は全力で阻止しなければならない敵に攻めさせる口実をあたえてはいけない戦争で得するひとのわなにかかっちゃいけないひとの命をささやかな家庭のしあわせをうばっていいはずがない。
ホーマーの前向きなやさしさとたくましさとそしてこどもだからこその純粋さと繊細さ。
ユリシーズのかわいらしさ無邪気さ。
それからホーマーの家族やともだち
電報局の局長と電信士
イサカの町のひとびと。
みんなにしあわせになってほしい。
きっとこういうのは現実には存在しないけど
誰の記憶のなかにもたしかにある
そういう理想のくらしなんだろうな。
--ヒューマン・コメディ--
サローヤン
訳 小川敏子