著者は
哲学の観点から
特に時間・言語・自由・心身関係を考察
している青山拓央さん。
幸福についての3つの問い。
幸福とは何か。
いかにして幸福になるか。
なぜ幸福になるべきか。
ひとつめとふたつめはよくある問いだが
みっつめはなかなか問われない。
なぜならば
幸福は絶対的な善であり
絶対的な善には理由などいらないからである。
そう思われている。
ぼくもそう思っていた。
けれども最近
幸福はかならずしも絶対的な善ではないのではないか
と感じ始めていて
幸福の価値について疑問を抱いている。
幸福ジャンキー
なる言い方もあるが
なんでもかんでも幸福になろうとする姿勢には
醜ささえ感じるようにもなってきた。
著者によると
現代的な幸福の議論には3つの代表的な説があるらしい。
快楽説。
欲求充足説。
客観的リスト説。
ひとつめとふたつめは主に主観的なものであり
みっつめは文字通り客観的なものである。
最近のぼくは
快楽説
を有力だと考えている。
極端にいえば
人間はドーパミンなどの快楽物質を分泌して
気持ちよくなるために行動している
と思っている。
快楽には善悪などなく
そのひとにとって気持ちよいという事実だけがある。
欲求充足説は
ぼくにとっては
快楽説のバリエーションに過ぎず
欲求が充足することによって気持ちよくなる
ということだと思う。
いっぽう
客観的リスト説
というのは
最近のぼくからみれば的外れに思える。
世間が認める幸福の客観的リストなんてものは
もはや存在しないのではないか。
あるとしてもそれは
人類全体ではなくて
特定の集団内においてのみ有効なリストなのではないか。
もしかしたら
人類全体の普遍的な価値観としての
幸福の客観的リストなるものが
あると思えるかもしれないが
それは人類の歴史全体で考えてもそうであるとは思えない。
ある時代には幸福の条件とされていたものが
現代ではまったくあてはまらないなんてことはたくさんあるだろう。
客観的にも主観的にも幸福な状態。
これは文句なく幸福でよい。
しかし次のふたつはどうだろう。
客観的にみたら幸福なのに主観的には幸福ではない状態
と
客観的にみたら幸福ではないのに主観的には幸福な状態。
ぼくは後者が幸福だと思う。
前者は幸福ではない。
それにはこんな反論があるだろう。
たとえば
情報を遮断され真実を知らされずに独裁者を信奉し
独裁者に尽くすことで幸福を感じているひとがいるとして
そのひとは幸福だといえるだろうか
と。
ぼくはこう思う。
それを幸福でないというのはこちら側の論理であって
当人が幸福ならば幸福ということでいいのではないか。
なぜわざわざ幸福なひとに向かって
あなたは真実を知らない不幸なひとだ
なんぞと告げる必要があるのだろうか。
もちろん自ら真実を知って考え方を変えるのは構わない。
ほかにもこんな例はどうだろう。
たとえば
偽物の絵を高い値段で買わされたひとがいたとして
でもその絵を持つことで幸福になっているのだとしたら
それはそれでいいじゃないか。
たとえば
パートナーが浮気をしていてもそれに気がつかないままで
さらにパートナーは浮気の負い目からふだんはとてもやさしいなんてこともあって
最後までその状態をキープし続けられるなら
それはそれでいいじゃないか。
そんなふうに考えるひともけっこういるんじゃないかな。
真実は幸福にとってそんなに重要なことなのか。
当人が幸福ならそれでいいじゃないか。
と
こんなふうに文字にすると
真実のない幸福なんて幸福ではない
というような気にもなってくるかもしれないけど
つまりは自分がどのような状態を幸福だと思うかがポイントなのであって
客観的に
これが幸福なんだよ
なんて他人から言われてもなんとも答えようがないのである。
この本のメッセージはそんなところにはないとは思うが
ついついそんなことを考えさせられたのであった。
--幸福はなぜ哲学の問題になるのか--
青山拓央