最近ぼくのなかで流行っている
幸福
についての考え方をメモしておく。
そもそも
幸福
っていうことばの定義からはじめないといけない。
なぜなら
幸福
ということばの意味するところは
ひとそれぞれ異なるから。
そして
その
ひとそれぞれ異なる
ことこそが
幸福
の正体なのである。
幸福は
どこまでも
主観的
なものであって
けっして
客観的
ではありえない。
幸福
は客観化された時点で
似て非なる別物になり果ててしまうのである。
国民総幸福量(GHP)
なんて指標をまじめに検討する向きもあるが
つまりこれは
幸福
と感じているひとがどれだけいるか
っていう
主観の総計でしかありえないのであって
統一的な指標で客観的に比較しよう
なんて発想にはまったくそぐわないのである。
では
幸福
の意味を定義付けすることなんてできないのではないか
と思うかもしれない。
いや
ぼくが最近思うところでは
脳が気持ちいいと感じている状態
が
幸福
とほぼイコールなのではないかということだ。
幸福になりたい
っていうことばは
ほとんど
脳が気持ちいいと感じている状態になりたい
っていうことばと同義であるといってもいい。
たとえば
家族と一緒に過ごしていると幸福な気持ちになれる
は
家族と一緒に過ごしていると脳が気持ちいい
と置き換えられる。
もっとも
家族と一緒に過ごす時間
が必ずしも幸福であるとは限らないのであるが。
おいしいおやつを食べているときが幸せ
っていうのも
おいしいおやつを食べているときは脳が気持ちいい
っていうのと同じ。
こうやって考えると
幸福
なんて
実に俗っぽい
私利私欲にまみれた
そしてある意味機械的な
しょーもない欲求
っていうふうに考えられる。
何がいいたいかっていうと
つまり
幸福を追求する権利とか自由とかを声高に叫ぶのは
己の俗っぽさを恥ずかしげもなく公表しているようなものだ
ということだ。
いや
幸福を求めちゃいけない
っていいたいわけじゃなくて
幸福なんてひっそりと自分だけで感じるものなんだよ
っていいたいだけです。
他人の幸福を願う
っていうのも
そのひとにとっての幸福が何かが他人にわかるはずがないので
余計なお世話だったりする場合があるわけです。
○○さんが○○さんなりに気持ちよくなりますように
っていうのが正しい願い方だと思うけど
こういう言い方をすると
とても俗っぽい感じになって
願われた○○さんが恥ずかしいことになってしまいます。
究極的には
脳が気持ちよくなりさえすれば幸福な気分になれるわけで
それはどのような環境でも訓練次第で実現することができると思う。
よくいわれる
足るを知る
っていう考え方。
逆にいうと
ものすごく恵まれた環境にあっても
脳が気持ちよくなる訓練を積んでいないと
幸福を感じることができない
っていうことにもなる。
よくある
感覚が麻痺してしまって
もっともっとととめどもなく求めてしまう状態
っていうのがそれだ。
そういうわけで
ぼくはささやかなことでも脳が気持ちよくなれるように
トレーニングをしていきます。
それから
人間の言動は自分の脳を気持ちよくさせるためになされる
っていうことを覚えておいて
このひとはいまこういうことをやって脳を気持ちよくさせているんだな
って考えるようにします。
そうすると
苦手なひととのやりとりもちょっとましに思えるような気がします。
もちろん
これは極端な考え方で
正しいわけでも何でもないんだけど
こうやって考えることによって
いまのぼくの脳は気持ちよくなっている
っていうこともわかっているのです。