日本の反知性主義 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

反知性主義。

このことばの定義は難しくて
特に日本ではあまりにも多様な意味で使われすぎているので
同じことばで話していてもまったくかみ合わない
っていうふうにもなる。

この本を読んでいても
まさにいろんな意味で使われていて
このことばを使うことの難しさが
よくわかる。

アメリカの国の建国の精神というか基礎的な思想というか
そういう意味での反知性主義は
わかるような気がする。

頭で考えた理屈よりも
現実の経験の方が意味がある
っていう考え方。

プラグマティズムはアメリカの哲学。

そういうわけで
反知性主義というのは
反とつくぐらいだから
知性を批判的にみるということで
単に知性的でないという
非知性とはまったく異なるものである
とそうぼくは解釈したい。


そういう意味ではぼくも
反知性主義的な側面を持っている。

四の五の言っている暇があったら
目の前の問題を解決してみろ
って言いたくなる場面もしばしばある。

テレビのコメンテーターを
知性あるひと
とはまったく思っていないので
彼らを批判することが反知性主義であるとは思わない。

けれども学者やジャーナリストなどの専門家として
なにがしかの問題に精通しているひとに対しては
批判ばっかりしてないで自分でやってみろ
って言いたくなる。

こういう立場は反知性主義っていうことになるんだろう。

いっぽうで
やっぱり専門家の知見っていうのも大事だよな
って思うことも多い。

内田樹さんの“反知性主義者たちの肖像”でのなかで
--「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を周囲にいる他者たちに及ぼす力のことを、知性と呼びたいと私は思う
ということばには共感する。

あるひとの文章を読んだり話を聞いたりすることによって
自分の世界が広がるという経験は何度でもある。

それがなければ読書なんてしないし
誰かとコミュニケーションをとろうとも思わないだろう。

そういう意味では
文章を読んだり話を聞いたりしても
なんにも自分の世界が広がらないとすれば
その文章を書いたり話をしたりしたひとは
反知性主義者に批判されても仕方がないといえるのかもしれない。

とは書いたものの
自分でもよくわかっていないけど。

少なくとも
自分に都合のいいことしか言わなかったり聞かなかったりするひとは
あんまり信用できるひとではないと思うし
友だちにもなりたくないと思う。

あと
反知性主義ということばは
慎重に使わないといけないことばだということもわかった。

この本のなかでぼくが気に入ったのは
内田樹さんの“まえがき”と“反知性主義者たちの肖像”
高橋源一郎さんの“「反知性主義」について書くことが、なんだか「反知性主義」っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと”
平川克美さんの“戦後70年の自虐と自慢”
仲野徹さんの“科学の進歩にともなう「反知性主義」”
鷲田清一さんの“「摩擦」の意味--知性的であるということについて”
あたり。

高橋源一郎さんの文章はやっぱり好き。

鶴見俊輔さんと息子さんとのやりとりのところとか
太宰治と谷崎潤一郎のところとか
特にいい。

それから仲野徹さんの着眼点はおもしろかった。

目の前の成果を追うことで
長期的な希望を失わせる構造は
理系の分野でも顕著だ。

内田樹さんと鷲田清一さんの文章は
ぼくはとても好きだけど
こういう文章を読むと反知性主義者のひとは
これがいったい何の役に立つのか
って思うような気がする。

なんでもすぐに役に立つものを
と考えるその目先重視の考え方が
ぼくたちの社会を息の詰まる生きづらい社会にしている
と思うんだけど。

もっとゆったりと生きたいんだけど
それは贅沢な望みなんだろうな。





--日本の反知性主義--
内田樹 編