2011年3月11日午後7時30分
新日本フィルハーモニー交響楽団が予定通りに演奏会を開いたという。
会場は墨田区のすみだトリフォニーホール
指揮はダニエル・ハーディング
演目はグスタフ・マーラー作曲の交響曲第5番嬰ハ短調。
この作品はフィクションだが
あの夜にマーラーの演奏会が開かれたことは事実
とのこと。
読みながらあの日を思い出した。
東北の太平洋側そのものではなく
東京での物語なので
直接的に生々しく凄惨な描写があるわけではないが
激しく揺れた時の不安や
衝撃的な映像をみた時の圧倒的な絶望感と無力感
そして機能が麻痺した東京の交通機関や歩いて帰宅するひとの列などの記憶が
よみがえってきた。
演奏会を聴きに行く4人の男女。
それぞれのその日のドラマ。
それは決してドラマチックではないけれども
あたりまえの日常の延長である。
そんな日常をいきなり不確かなものにしたあの地震と津波。
演奏会の決行を決めた理事会。
その葛藤。
なぜこんな日に演奏会を決行するのかと詰め寄った楽団員に対する
事業運営責任者の答えに胸を衝かれる。
ああたしかに。
もちろん迷い葛藤し確信をもてないまま発せられたことばではあるが
それもひとつの決断だろう。
第5章で描写されるマーラーの交響曲第5番。
登場人物の心象がそれぞれの解釈を生む。
音楽には決まった感じ方なんてない。
そしてこの日に聴くからには
良くも悪くもあの災害の影響を受けないではいられない。
小説で音楽を描くこと
音楽をことばで表現することは
どうしようもなく無謀で意味のないことであるのかもしれないが
こうして物語を与えられることによって
音楽が身近なものに感じられるとすれば
それは無駄なことではないだろう。
ぼくも幾度となく聴いてきたマーラーの交響曲第5番。
難解なのでこれまで正直よくわからなかったのだが
この作品によりひとつの解釈を与えられたような気がする。
もっとも
何らかの物語に頼った解釈なんて
音楽に対する態度としては邪道もはなはだしいとは思うのだが。
ちなみに
第4楽章の“アダージェット”よりも
第1楽章や第2楽章のほうがぼくの好みではある。
とにかく
あの地震を物語に組み込むことは
作家にとってはなかなか勇気のいることだと思うし
事実を矮小化させてしまう危険性もあるけれども
いっぽうで読み手に何らかの記憶を想起させるきっかけにはなる。
ところで
あえてもうひとついうならば。
この物語で描かれる時間帯には
まだ原発の爆発が起きていない。
この作品の登場人物は
自然に対する人間の無力については絶望的なまでに感じているが
人間の業ともいえる原発事故のあとの葛藤にはまだ思いが至っていないのである。
地震や津波は人間の力では防ぎようがないが
原発事故は人間の力で防ぐことができる。
人間の力で防げる
というのは技術の力で防げるという意味ではない。
原発のない時代にはこのような事故は起こらなかったという意味だ。
--あの日、マーラーが--
藤谷治