日曜日の朝にテレビをつけることは滅多にないのだが
今朝
たまたまつけたテレビに大阪は八尾のコーヒー店がうつっていた。
ドキュメンタリーで特集されているようだ。
なんでも日本一値段の高いコーヒーを飲ませる店らしい。
店主はもうじき70歳。
なんと1杯のコーヒーを注ぐのに50分をかける。
しかも客の前に座ってじっくり50分間抽出する。
なんか気まずいんじゃないかな
という心配をよそに客はうれしそう。
ほかにも20年間樽に寝かせたコーヒーなんかもある。
スプーン1杯でうん千円。
ぼくもコーヒーは飲む。
とはいえそれは
味わう
というのとは程遠く
カフェイン補給
というのに近い。
それでも
缶コーヒーはできるだけ避ける。
最近はコンビニのコーヒーがうれしい。
安いしおいしい。
香りもいい。
話は少し横道に逸れるが
安いコーヒーを飲むとほんの少し胸が痛む。
コーヒー豆の農場で搾取されているこどもたちのことを思うからだ。
そういう苦さもある。
話をもとに戻す。
ふだんコンビニの安いコーヒーを飲んでいるぼくにとって
この店のあり方は驚きだった。
すごい。
たぶん
この店のコーヒーからしたら
ぼくがふだん好んで飲んでいるコンビニのコーヒーなんて
コーヒーのうちにはいらないのではないか。
かといって
店主が気どっていないところがいい。
はじめての客に
自分の若いころの写真を配ったりしている。
その写真がまた結構なハンサム。
さわやか。
で
ぼくはきっとコーヒーの味の違いなんてわからないのだが
この店のありかたをみて思い出したのは
ミヒャエル・エンデの“モモ”と
サン・テグジュペリの“星の王子さま”のエピソードだ。
どちらの話にも
簡単に手に入るものよりも
時間をかけて手に入れるものの方が価値が高い
というエピソードが出てくる。
かつてぼくが
仕事と生活に忙殺されて幸せの意味がすこしわからなくなっていた
そんなときに出会った本たちだ。
ああ
そういう価値観もありなんだ
って気づかされた本。
もちろん便利さを否定するわけではないんだけど
なんのための便利さかっていうのを忘れると
便利さのための便利さみたいに
手段が目的化してしまう。
ほんとうはぼくたちが便利さを求めるのは
その便利さによって幸せになったり気持ちよくなったりするためなんだから。
このコーヒー店は
値段は高いし時間はかかるし
およそ便利さとは対極にありながら
客が気持ちよくなる店らしい。
店の雰囲気が昭和な感じもまたいいんだよね。
だからもしぼくがこの店を訪れるとしたら
おいしさがわかればもちろんうれしいけど
いい時間を過ごせたらそれだけでも十分みたいな
そんなふうに思うわけです。
つまり
コーヒーをあじわい
時間をあじわう
みたいな。