“太陽”がおもしろかったので、“惑星”も読んでみた。
この2つの作品は対になっている感じ。
過去も現在も未来もすべてわかっている、と自称(?)する語り手。
その語り手が、あるひとに送るメールの形式で小説が進行する。
作品のなかでも触れられているけれども、映画“マトリックス”的世界観である。
イコールではもちろんないけれども、影響は受けているだろう。
“マトリックス”はウォシャウスキー兄弟だけど、上田岳弘さんがこの2つの作品で標榜しているのは、フィリップ・K・ディックの作品群のような気もする。
まあ、ぼくはこういう形而上的な思考実験を展開する作品は好きだ。
ところどころ展開が混乱しているような気もするが、この強引にまくしたてるような流れはむしろこのテーマにはちょうどいいかもしれない。
あんまり親切にわかりやすく書かれるより、これくらいすっとばしてくれる方が読み手の集中力が増すときもある。
“太陽”でも書かれていたが、人間が完全な記憶力をもって何百年も生きられるとしたら、世界はきっと退屈なものになるだろう。
また、“惑星”で書かれているように、すべてがわかってしまうならそれも退屈に違いない。
電子技術の進展により、現実はどんどん拡張していき、1個の人間が関与できる対象はものすごく増えたが、同時に、それぞれの対象への関与の度合いはしだいに薄れていっている。
どんどん関係性が希薄になっていけば、やがては、個というものの意味もなくなっていくかもしれない。
それははたしてよいことなのかわるいことなのか。
あらためて読み直した“太陽”もやはりキマッている。
壮大な想像力に触れることができて痛快かつ高揚。
――惑星――
上田岳弘