いろいろとわかってしまうひと | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

仙人とか預言者とか占星術師とかスピリチュアル・カウンセラーとか。


いろいろとわかってしまうひとがいる。


人間のやっていることのバリエーションなんてたかがしれている。


1000年もあればとりあえずひととおり主要な出来事は起こっているんじゃないかな。


もしも1000年生きられるひとがいて、記憶力が抜群ならば、1000年の間に起こった出来事を思い出せば、いま起こっている出来事がこれからどう展開して、最後にどういうことになるか、ってことまでわかるだろう。


ぼくたちは80年くらい生きるんだろうけど、80年でも結構いろいろと起こっているはず。


だからぼくたちがもしもちゃんと過去のことを記憶しているのならば、同じ失敗は繰り返さなくてもいいし、よかったことは何度でも繰り返したらいい。


過去の成功体験にいつまでもしがみついているとあたらしい時代の波に取り残される、っていういいかたもあるけれど、それだって、そういうパターンがあるってことに過ぎないんだから、過去の成功体験が活きるパターンとそうでないパターンがあることがわかっていれば、それぞれのパターンに沿って次の行動を選択すればいいだけの話。


将棋の世界ではほとんどの手はすでに出尽くしていて、あたらしい手なんて滅多にないという。


それは小説でもおんなじ。


ぼくたちは過去の出来事を組み合わせて現代風にリメイクしただけのものを、あたらしい、なんて重宝がっているだけのこと。


たとえば恋愛でも、おとなならとっくにわかっていることであっても、少年少女にとっては、こんな気持ちはじめて、ってなる。


そのはじめての少年少女向けにあたらしい作家によるあたらしい恋愛小説が描かれる。


それを読んだおとなは、ああぼくたちの少年時代にもこういう小説ってあったよね、なんて思う。


使われるアイテムが、家の電話じゃなくてスマホになっているっていうだけの違い。


仙人とか預言者とか占星術師とかスピリチュアル・カウンセラーとか、いろいろとわかってしまうひとっていうのは、短い期間で人間の思考パターンを理解してしまったひとなんだと思う。


それは奇蹟なんかじゃなくて、記憶と思考の賜物。


ぼくたちは、仙人でも預言者でも占星術師でもスピリチュアル・カウンセラーでもないけれど、過去に学ぶっていうことはできるはず。


それができないのは謙虚さを失っているから。


あるいは過去の歴史や記録を自分たちに都合よく解釈しようとするひとたちにのせられて、いまを生きることに精いっぱいで過去のことなんて考えられないような気分にさせられているから。


大きく育つ樹は、土の下にしっかりと根をはっている。


根が短かったりひ弱だったりしたら樹は育たない。


未来を育てるためにはそれにふさわしい過去をもたなければならない。


ぼくたちは謙虚に過去を学んでいるだろうか。