止める力、変える力 | (本好きな)かめのあゆみ

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昨日、放送されていた

ETV特集「立花隆 次世代へのメッセージ~わが原点の広島・長崎から~」

をとても興味深く観た。


戦時中に長崎で生まれた立花さんは、若きころ、広島と長崎での原爆被害の現実について世界に知らしめるための活動を熱意をもっておこなうが、表面的には理解してくれるように思えるひとでも、結局は「あの原爆によって戦争による被害者がさらに増え続けることを抑止できた」という論理によって核を正当化、あるいは少なくとも必要悪と捉えるという状況が続くことに絶望を感じ、以後、反核の運動とは距離を置くようになる。


理想はしょせん理想で、現実を変えることはできない、という諦め。


当時、ともに反核運動を進めたカナダの友と半世紀ぶりに出会った立花さんは、そこで、友のその後を知る。


それは、友を含むカナダのひとびとの反核運動によって、アメリカによってカナダに配備されていた対ソ連の核ミサイル迎撃用の核ミサイルを取り除いたということだ。


当初、2割程度だった反核支持者が運動によって倍以上に増えたという。


半世紀ぶりに知ったその事実によって、立花さんの諦めは希望に変わる。


民主主義国家では国民の考えで政治が変わる。


決してそれは夢想ではない。


立花さんのカナダ人の友はいう。


冷戦時代を通して、核兵器は戦争の抑止力と言われていたけれど、本当の抑止力は、まさに広島と長崎の経験そのものだ。


各国の指導者が簡単には核ミサイルのスイッチを押せないのはなぜか。


それは広島と長崎の現実を知っているからだ。


そして各国の指導者がそれを知っているのは、広島と長崎の現実を世界に広める運動があるからだ。


だから私たちは、広島と長崎の経験を世界のひとびとに伝え続けなければならない。


なぜならば、広島と長崎の経験を知らなければ核ミサイルのスイッチを押すと何が起こるかということがわからない指導者が生まれかねないからだ。


同時に立花さんはこう考える。


広島と長崎の経験と、あの戦争の経験を切り離すことはできない。


日本人は広島と長崎の経験によって被害者を名乗る資格を得たかのような錯覚に陥っているが、自らが加害者であるということから目を背けることはできない。


たとえ自らが目を背けたところで、日本人から被害を受けたひとびとは、決してそのことを忘れない。


私たちが広島と長崎の経験を忘れないのと同じように。


あの戦争をどのような名称で呼ぼうとも、そこで繰り広げられた事実は現場のひとびとの記憶に焼き付いている。


核兵器ではなく広島と長崎の経験そのものが抑止力であるという論に従えば、戦争の抑止力も戦争の経験そのものである。


つまり、戦争の経験が失われる、あるいは美化されることによって、戦争の抑止力は失われていくということ。


いま、勇ましいことばがあちらこちらで聞こえてくるが、ぼくにはそれは、戦争の記憶を学ばないひと、あるいは意識的に目を背けるひとによるものに思えてならない。


たしかに他国からの批判はときに的外れで、気分が悪くなることもある。


けれどもあの戦争の実相を知っているひとなら、そこを我慢してでも戦争はもう二度としたくないと思うに違いない。


実際に、戦争の実相を知っているひとがたくさん生きていた時代には我慢してきたことが、そのひとたちが世を去って少数派になってきたいま我慢できなくなっているようだ。


勇ましい発言をするひとびとがむしろ痛々しい。


彼らはきっと、たとえ戦争が始まっても自分はきっと安全な立場にいると信じきっているか、目の前の苦痛を和らげるためにより大きな苦痛を呼び込んでいることに気が付いていないか、どちらかだ。


ぼくも戦争の実相は知らないけれども、現在の世界で起こっていることや、身近に起こる出来事から想像を広げていくだけでも、自尊心を傷つけられないために戦争を肯定するのは愚かなことだということがわかると思う。


でも、こういういい方をすると、彼らは反発したくなっちゃうんだよな。


決して上から目線になっているわけではないんだけど、彼らはそう感じてしまう。


何かを思い込んでいるひとに、冷静に立ち止まって過去を振り返ってもらうことはほんとうに難しい。


立花さんがいっていたように、必要なのはことばのちからと、そのことばに力を与える熱意なんだろうけど、その熱意というのが簡単ではないのだ。