最近
著名な作家さんの作品ではあるものの
ぼくの感性では理解が難しかった読書が2冊続いたので
ここらでひとつ安心で鉄板の
ほむりん作品
を読んでみた。
まあ間違いない。
さくさく読める。
感覚もよくわかる。
うんうんとうなづくことしきり。
穂村さんは女性が苦手っぽい言い回しをしながらも結構いろいろ経験している。
年齢相応の恋愛観かというとそうじゃない感じだけどね。
いつでも恋の迷路を手探りで冒険している学生みたい。
確かにときめきとやすらぎの両立って難しいよ。
でもどっちもほしい。
だったら意識的にそういう演出をときどきしていかないといけないんだよね。
それって面倒
っていうか不自然。
モテたいけどモテるために努力するのはカッコ悪い
って思う過剰な自意識も邪魔をする。
ほかのひともいるときとふたりきりのときとでは恋人との接し方って変わるのが普通だと思うけど
たまにそうじゃないひともいて目のやり場やふるまい方に困ることもある。
恋人に期待することは経験とともに変わっていく。
っていうか経験すればするほど期待しなくなる?
特別な好意とありきたりの親切とのあいまいな境界。
頼んでもないのにペットボトルのふたを開けようとしてくれたり
ちらっと話しただけのおいしい地元のお菓子の話題を覚えていて遠い故郷に帰ったときにそれをお土産に買ってきてくれたうえにみんなのいる前では渡しにくいからとこっそりぼくのロッカーに忍ばせてメールでしらせてくれたり
職場の旅行先の昼食後にみんなは散策に出かけたけどぼくはもうすこしゆっくりしたいからここに残っていますというとじゃあわたしもここにいますって一緒に残ってくれたり。
こういうのはぼくへの特別な好意だと解釈してしまいがちだけど
案外そうじゃなかったりして。
えーっ!あのやさしさはぼくへの特別な好意のあらわれだったんじゃないの?ふつう好意のないひとにそこまでやさしくする?あれってつまり彼女はだれにでも親切なひとだったってそういうこと?
それでもたまには勘違いさせてほしいようなほしくないような。
とかく恋愛は相手を通して自分を愛することだったりする。
こんなにすばらしいひとに愛される自分はなんてステキなんだ!ってうっとり。
不毛な理想の恋人像。
過去に好きになったひとを分析して共通項を探し出したからって
そんなのに意味があるのかな?
自分を不変でかけがえのない存在だなんてそれは錯覚もいいところ。
10年前の自分と現在の自分
それから10年後の自分
おんなじ価値観でいきているといえる?
もしもし、運命の人ですか。
“?”ではなく“。”で終わるつぶやき。
答えを求めているけどスルーされても傷つかない。
そもそもそんな問いかけに意味があるのかどうか。
こころに問いかける。
ことばではなく感じ方。
「ここ昔、森だった?」
そんな彼女のひとことで恋に落ちてみよう。
誰かを好きになるっていうことの不思議さと可笑しさ。
ときおり挿入される短歌がスパイシー。
――もしもし、運命の人ですか。――
穂村弘