ぼくにとって
象が登場する印象的な作品といえば
宮沢賢治さんの“オツベルと象”
そして
安部公房さんの“公然の秘密”。
そしてあらたに加わるのがこの作品。
ジョージ・オーウェルさんの“象を撃つ”。
オーウェル作品といえば
“1984年”
が有名だが
“動物農場”
を訳した開高健さんがいうには
“1984年”よりも“動物農場”
“動物農場”よりも“象を撃つ”
がより優れているとのことだったので
読んでみた。
思っていたより短かった。
文庫で15ページ。
で
小説というよりも随筆。
オーウェルさんが20代前半だったころ
当時イギリス領だったビルマ(現在はミャンマー)で
警察官として働いていたときに経験した出来事について
書かれている。
この出来事によって若きオーウェルさんは
帝国主義の本性――専制政府を動かしている真の動機
を見定めることになる。
労務用の象が逃げ出し
まちを襲う。
ひともひとり死んでしまう。
若き警察官のオーウェルさんは
ライフルを携えて象に近づくが
決して象を撃つつもりはない。
なぜなら象はすでにおとなしくなっていたから。
けれどもその様子を見守る群衆は
オーウェルさんが象を撃つことを期待する。
領主である英国の国民のひとりとして
現地のひとびとから憎まれているオーウェルさんではあるが
もしもこの場面で象を撃たなければ
意気地のない奴として群衆から侮られるかもしれない。
支配者側の人間としてそれは避けなければならない。
支配者と被支配者の関係の正体。
支配者は支配するという宿命を背負わされ
そのことによって自由を失う。
ある意味で
被支配者によって支配される支配者。
そんな馬鹿な
と思うひともいるかもしれないが
ぼくにはよくわかる。
たとえば上司と部下の関係。
上司は上司としてふるまうことを
部下からは期待されている。
ときに上司は自らの意思に反してでも
上司としてのふるまいを優先させなければならない。
飛躍と捉えられるかもしれないが
権力もそう。
権力のあるものは強いように見えて
実はその権力の影響の及ぶ範囲のひとびとの期待に縛られているのである。
権力者の暴走は
ひとえに権力者だけに原因があるのではなく
権力の影響を受けるひとびとも共犯なのである。
なぜなら権力者の暴走は
権力の影響を受けるひとびとからの期待
(それが肯定的なものであるか否定的なものであるかにかかわらず)
によって推進されるからである。
ちょっと作品の主題から逸れてしまったが
オーウェルさんが
権力や全体主義の構造を見破ったきっかけとなる作品
のような気がする。
世界のいまの姿は
世界を構成するぼくたちの意識を映しているのである。
――象を撃つ――
ジョージ・オーウェル
訳 井上摩耶子