昨夜
NHKスペシャルを観た。
“臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか”。
死の淵から生還したひとたちが口を揃えて語ることがある。
いわく
自分の魂が身体から離れて上の方から自分自身を見ていた
光の向こうに神秘的な何者かの存在を見た
などなど。
ぼく自身の解釈では
それらは自分の幻想であるということなんだけど
まあそれはひとそれぞれで構わない。
番組の中でも
最新の脳研究のなかで
心臓が止まって脳に血液がまわらなくなっても脳は直ちに活動をやめるわけではなくてごくごく微弱ながらも活動しているのでその脳が見せる幻影である可能性はある
とか
人類の脳の中でも早くに形成された大脳辺縁系は神秘的なものをヒトに見せる
とか
そういうことがわかってきたと紹介していたが
同時に
ある科学者のことばで
科学は“いかにして”ということを追及するものであり“なぜ”という問いに答えるものではない
というのも紹介していた。
それでいいと思う。
死後も魂が存在すると信じることで救われるひともいれば
死後にはすべてが無に帰すと考えることで安心できるひともいていい。
興味深かったのはむしろ
徹底的に事実を追及することで有名な立花隆さんも
自身の死を前にしては弱き存在に過ぎないのだということだった。
がんや心臓の病を抱えて死を意識せざるを得なくなったとき
真実を追うジャーナリストもひとりの無力な老人になってしまうのだ。
もちろん死を控えたときまでも真実を追求しようとする立花さんの姿勢には感銘を受けるのだが
それでもその手法が幾分自分自身を納得させるためのものになっているところを感じた。
もちろんそれで構わない。
“一般的な死”と“私の死”はやはり同列には論じられないだろう。
ぼくだってそうなるに違いない。
いまのぼくにとって死が恐ろしいところは
その痛みや苦しみあるいはやり残したことへの心配
であって
自分がこの世から消えることそのもの
に対してはあまり恐ろしさはない。
けれども
いよいよ死を目前にしたときにも同じことを考えられるか
っていうとあやしいといえばあやしい。
現代は死を遠ざけている。
身近に死を感じることが少なくなっている。
だからこそ
死への免疫というか慣れというか経験が圧倒的に不足しており
自分の死あるいは近しいひとの死を前にしてひどく戸惑う。
死は誰にも平等に訪れる。
そのことには自覚的でありたい。
メメント・モリ。